【F1 ホンダ】挑戦と挫折、復活と栄光の歴史

2015年、エンジンサプライヤーとしてF1に復帰したホンダ。残念ながら復活イヤーとなった昨年の成績は褒められるものではありませんでしたね。過去にはたくさんの栄光を持っているホンダでも、現代の厳しいレギュレーションとハイテク満載のF1で、いきなりトップに立つことは難しいということでしょう。2016年の躍進を期待しつつ、ホンダとF1の歴史から昨年の内容までを振り返ってみましょう。

F1 ホンダの歴史

F1でのホンダの歴史の始まりは実はとても古く、1964年にまで遡ります。当時はオートバイメーカーとして世界選手権レベルのレースで活躍していたものの、4輪メーカーとしては軽トラックを発売しただけの弱小メーカーでした。この状況で“F1に挑戦しよう”と決めた宗一郎氏の手腕は素晴らしいという以外に言葉が見つかりません。
それにしても、すでに50年を超える歴史があるんですね。とはいえ、その間ずっと参戦していたわけではありません。参加と休止を繰り返しているんです。初参戦の1964年~休止する1968年までを第1期、1983年の復帰~休止する1993年までを第2期、2000年の復帰~撤退する2008年までを第3期、そして復活した2015年~を第4期と呼び分けて、長い歴史を整理しながらお話ししたいと思います。

参戦の仕方もまちまち

第1期から第4期までと書きましたが、それぞれに参戦の仕方が違います。第1期はフルコンストラクターとして、第2期はエンジンサプライヤーとして、第3期はエンジンサプライヤーからフルコンストラクターとして、第4期はパワーユニット(エンジンだけでなく、エネルギー回生システムを含むパッケージ)サプライヤーとして参戦しています。

波乱の幕開けだった第1期

1964年にF1参戦した当時のホンダは、“マン島TTレース(イギリス・マン島で行われるタイムトライアルレース)”を制したものの、四輪車は軽トラックを発売しただけの弱小メーカーでしかありませんでした。

エンジンサプライヤーとしてスタート

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F1参戦の準備は、当時順風満帆の2輪部門の陰に隠れてこっそりと行われました。 1961年からF1の排気量は1,500ccと決まっていたので、横置きの1,500ccV型12気筒エンジンを開発することに決定していました。エンジン技術者の中村良夫は、開発したエンジンを使ってもらうコンストラクターを探し始めます。当初、ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのです。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っていたので除外されて供給先はブラバム、ロータス、クーパーの3チームに絞られ、そのうちのブラバムにほぼ内定していました。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められました。
ところが1963年の秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日して、ホンダ本社を訪れこう言ったのです。「2台走らせるロータス25のうち、1台はクライマックスエンジンを載せるがもう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。
これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス25にあわせて進められたのです。

急遽フルコンストラクターの道へ

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ところが、1964年2月にチャップマンから電報が届きます。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものでした。すでにブラバムも搭載するエンジンは決まっており、自社でシャーシを造ってフルコンストラクターとして参戦するしか道がなくなりました。シャシを急造することになったところで、さらに問題が発生します。ナショナルカラーの問題です。1960年代のF1マシンは、国ごとにナショナルカラーが決まっていました。イギリスはブリティッシュグリーン、フランスはブルー、イタリアはレッド、ドイツはシルバーという具合です。日本は初出場のためナショナルカラーが決まっていませんでした。宗一郎が好きなゴールドが提案されたのですがすでに登録済みで、日の丸をイメージした白と赤を申し出るもかなわず、アイボリーに日の丸を入れたものに落ち着きました。
1964年8月2日のドイツGP(ニュルブルクリンク)で初参戦を果たします。チャップマンから絶縁電報を受け取ってからわずか6か月後のことでした。
1965年には全戦出場し、最終戦の第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが念願の初優勝を果たします。これはF1エンジンがが1.5L時代の最終戦で、グッドイヤータイヤの初勝利でもありました。犠牲と困難を乗り越えて辿り着いた勝利だったにも関わらず、当時の日本国内ではモータースポーツへの理解や認知が乏しく、テレビで報じられた大ニュースは暴走族に加担する企業として捉えられてしまいました。
1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになりました。ホンダはこのレギュレーションに対応するべく新しいV型12気筒エンジンの開発を行いましたが、既存のエンジンを結合したりスポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを流用した他のチームから大幅に出遅れてしまいます。結局このシーズンは、終盤イタリアGPにようやくエンジンが間に合い、ギリギリで参戦できました。
1967年にはジョン・サーティースがチームに加入します。1964年のワールドチャンピオンの加入は、チームに大きな力を与えました。このシーズンのドライバーはサーティース1人だけでしたが、彼はホンダのマシンを駆って1位1回、3位1回の2回表彰台に昇り、20ポイントを獲得してコンストラクターズランキング4位になりました。中でも優勝したイタリアGPは、2位のジャック・ブラバムに対してわずか0.2秒差での勝利で、この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となりました。
1968年のワークスマシーンは、昨シーズンサーティースがイタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301です。一方これとは別に、創始者の本田宗一郎が固執していた空冷エンジンを搭載したRA302が制作されてフランスGPに持ち込まれましたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われてしまうのです。
この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めます。この頃社会問題になっていた大気汚染対策の市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表しました。奇しくもこの年は、フォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したマシンがドライバーズ・コンストラクターズともにチャンピオンになっています。汎用性の高いDFVエンジンの登場は、ワークスチームの退場とプライベーターチームの百花繚乱をもたらしたのです。

ターボ全盛の第2期

ルノーによって先鞭が付けられたターボエンジンの登場は、自動車メーカーに対してF1へのカムバックをおおいに促しました。新しい技術の登場は市販車へのフィードバックも大きく、自動車メーカーとしては挑戦に値する目標なのです。

スピリット

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80F1

参入を決めたホンダは、まず国際F2選手権や全日本F2選手権にエンジン供給を行い、1983年にスピリットチームにエンジンを供給することでF1への復帰を果たしました。ドライバーはステファン・ヨハンソンです。

ウィリアムズF1

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その年の最終戦南アフリカグランプリから、ウィリアムズへのV型6気筒エンジン“RA163E”の供給を開始します。翌1984年第9戦アメリカGPで、ケケ・ロズベルグが復帰後初勝利をあげました。開発初期にはターボラグの解消に悩まされましたが、量販車の技術を応用した低燃費・高出力のターボエンジンの開発に成功しました。車載センサーからリアルタイムでデータを収集する“テレメトリーシステム”を導入し、衛星回線を通じて日本の研究所でも同時に分析を行ったのです。
1980年代後半には、1986年と1987年にコンストラクターズ・タイトル、1987年にはネルソン・ピケのドライバーズ・タイトルを獲得しました。

チーム・ロータス

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中嶋悟がF1デビューする準備が始まります。1986年まで鈴鹿サーキットなどでウィリアムズシャシを使ってエンジンテストを行いつつ、ヨーロッパでもホンダエンジンを搭載したラルトでF2に参戦しました。そして1987年にロータスから日本人初のフル参戦を果たしたのです。ホンダはこの年からチーム・ロータスにエンジンを供給しています。ホンダは中嶋の個人スポンサーでもありました。

マクラーレン

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1988年、アイルトン・セナはホンダエンジンを連れて行くことを条件にマクラーレンに移籍します。アイルトン・セナとアラン・プロストの二人は、ホンダエンジンを搭載したマクラーレンで16戦中15勝し、アイルトン・セナはドライバーズ・タイトルを獲得しました。翌1989年にはアラン・プロストが、さらに翌1990年にはセナが再びチャンピオンに輝きます。
当時のホンダエンジンは最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことで、「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」とまで言われました。ホンダの活躍と中嶋の参戦、フジテレビジョンによる全戦中継が、1980年代後半~1990年代前半にかけて日本国内のF1ブームを後押しし、当時人気を博したセナと“F1のホンダ”として大いに知名度を高めたのです。 
1991年、マクラーレンMP4/6にはV型12気筒エンジン“RA121E”が搭載されました。そしてブラジルGPでアイルトン・セナがドライブするマシンは、深刻なギアボックス・トラブルを抱えていました。4速を失ったのをきっかけに、続いて3速・5速も使えなくなったのです。レース終盤には6速のみで走行せざるを得なかったのですが、セナは母国グランプリで初優勝を果たします。このことは彼の秀逸なドライビングテクニックとホンダエンジンの高い適応性を証明しています。

ティレル

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1991年には、中嶋が所属するティレルチームに前年マクラーレンが使用したV型10気筒エンジンをベースとした“RA101E”が供給されましたが、それまで搭載していたコスワースDFRに比べて重く大きくなったことでマシンバランスを崩す結果になり、エンジンパワーの増加による駆動系の故障とも相まってステファノ・モデナのモナコGPでの予選2位、カナダGPでの決勝2位という散発的な好リザルトはあったものの、シーズン通しての好成績には結びつきませんでした。
その後、ルノーエンジンを搭載したウィリアムズチームの台頭や、本田技研工業の世界各国での新車販売不振などにより、第2期F1活動は1992年に終了しました。この間ウィリアムズやマクラーレンなど多くのチームにエンジンを供給していたホンダは、1983年~1992年の間だけで通算69勝をあげ、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨したのです。F1撤退後の1993年には、かつてライバルだったフェラーリへ技術供与を行っています。

無限ブランドとしての参戦 ジョーダン・グランプリ

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1992年、前年にティレルに供給された“RA101E”をベースに無限(現・M-TEC)が独自に開発した“無限MF351H”でF1への参戦を開始し、ホンダの撤退後もホンダの技術を元にしたエンジンはF1に参戦し続けたのです。
1996年モナコGPでオリビエ・パニスが無限ブランドとしての初勝利をあげ、この勝利を皮切りに1998年ベルギーGPでデーモン・ヒルが優勝、ラルフ・シューマッハが2位という、無限ブランドとして初のワン・ツーフィニッシュを飾っています。 1999年フランスGPとイタリアGPでハインツ=ハラルド・フレンツェンがそれぞれ優勝しました。ハインツ=ハラルド・フレンツェンはF1生涯で3回優勝していますが、そのうち2回は無限エンジンでの勝利です。
2000年もシーズン終了までジョーダン・グランプリにエンジン供給する予定でしたが、この年からホンダブランドでB・A・Rにエンジンを投入することになり、シーズン途中からジョーダン・グランプリにもホンダブランドのエンジンが供給されることが決定しました。これにより2000年シーズン中盤をもって無限ブランドでの参戦に幕を閉じました。
1992年から2000年にかけて無限ブランド がF1 で獲得した戦績は、通算4勝、ポールポジション1回、獲得総ポイント182ポイントでした。

思惑が錯綜する第3期

第3期は少々複雑で、水面下ではフルコンストラクターとして参戦する準備を進めていました。

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第2期活動の終盤、「エンジンだけでなく車体も造ってみたい」という社内有志の希望で、水面下でリサーチカーの試作が行われました。1991年末にはV12エンジンを搭載する“RC-F1 1.0X(現在ホンダ学園所蔵)”、1992年にはモノコックを新造した“RC-F1 1.5X”がテスト走行を行っています。さらに、F1活動休止中の1996年にもステップドボトム仕様の“RC-F1 2.0X(無限ホンダV10搭載)”が製作されました。1.5Xと2.0Xは黒一色のボディカラーから通称“カラス”と呼ばれました。
1998年には当時本田技研工業の社長だった川本信彦の口から「シャシー製造を含めたフルワークスによるF1参戦」が明言されています。その後、イギリスにホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) を設立して参戦準備を進め、デザインは日本で行いイタリアのダラーラがシャシ“RA099”の製作を担当して、1999年にテストドライバーにヨス・フェルスタッペンによるサーキット走行まで準備が進んだのです。しかし、当時テクニカルディレクターを務めていたハーベイ・ポスルスウェイトがバルセロナでのテスト中に急死したことに加え、ホンダ社内に根強く残る慎重論によって結局ホンダはフルワークスによる参戦を断念してしまいます。

エンジンサプライヤーとして復帰 B・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)

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2000年にB・A・Rへエンジン供給と車体の共同開発を行うという形でF1に復帰しました。2000年シーズンはすでにB・A・Rによってマシンが製作されていたため、本格的な車体の共同開発は2001年以降になりました。
エンジン供給だけでなく、2002年からはホンダ独自のギヤボックスの開発も行われました。当初はギヤなどの内部部品とマグネシウムケーシングの研究が行われています。マグネシウムケーシングに関しては2002年の“B・A・R 004”で採用されましたが、B・A・Rがカーボンファイバーケーシングの採用を決定したことから開発はそちらに移行しています。内部部品は開発が継続され、2004年から実戦投入されています。2005年には、変速時のパワーロスを無くすシームレスシフト(クイックシフト)を実戦投入し、2006年以降は他チームにも急速に広まっていきました。
2001年と2002年にはジョーダンにもエンジン供給を行いました。2000年から始まった第3期では、第2期の好成績とは裏腹になかなか結果を残せずにいましたが、2004年シーズンは好成績を収めています。タイヤがブリヂストンからミシュランに変更されたこの年、その変更にうまく対応できた“B・A・R 006”で表彰台に11回上り、コンストラクターズランキング2位へと躍進したのです。ですが念願の第3期初優勝には手が届きませんでした。同年末にはチームの株式45%を取得し、共同経営に乗り出しました。
2005年シーズン、開幕当初レギュレーション変更に伴う影響をマシン設計に十分反映できていなかったことから出遅れ、ようやく第4戦サンマリノGPで3、5位でフィニッシュし復活の兆しを見せたところでレース後の車検で重量違反が発覚し、その後の裁定でサンマリノGPのリザルトは取り消されその後2戦(スペインGP、モナコGP)の出場停止まで受けてしまいました。その後は巻き返しを見せて、第8戦カナダGPでポールポジションを獲得、第12戦ドイツGP、第16戦ベルギーGPではジェンソン・バトンが表彰台を獲得します。コンストラクターズランキングは6位でした。

フルコンストラクターとして参戦再開

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2007年からタバコ広告が全グランプリで禁止されることにともない、B・A・Rのメインスポンサーであるブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) は2006年限りで撤退することを決めていました。ホンダはBATが保有する残り株式を取得し、38年ぶりに“純ホンダ”のワークスチームとして参戦することを決めました。
ドライバーはB・A・R時代からのエース、ジェンソン・バトンと、フェラーリから移籍したルーベンス・バリチェロ、サードドライバーにはアンソニー・デビットソンというラインアップです。前半戦は成績不振が続きましたが、B・A・R時代から技術部門を率いてきたジェフ・ウィリスに替えて中本修平をシニア・エンジニアリング・ディレクターに任命しました。第13戦ハンガリーGPで、ジェンソン・バトンが14位スタートながら波乱のレースを制して見事優勝し、第3期参戦としての初勝利を果たしました。オールホンダとしては39年ぶりの優勝でした。後半戦はコンスタントにポイントを獲得して、コンストラクターズランキング4位でシーズンを終了しました。

スーパーアグリF1チーム

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鈴木亜久里が新たに立ち上げたスーパーアグリにエンジンを供給し、ギアボックス開発の技術支援も行いました。チームは終始資金難にあえぎ、3年間の活動で入賞が2回(いずれも佐藤琢磨)という成績で幕を閉じました。

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2007年は、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロ共に残留、サードドライバーにクリスチャン・クリエンを迎えました。2007年に使用するマシン”RA107”のカラーにスポンサーロゴを使用せず、宇宙から見る地球をイメージして環境問題をテーマにしたカラーリングを発表しました。レギュレーション規定であるノーズのマニュファクチャラーロゴと供給タイヤメーカーロゴはプリントされています。イギリスGPからは、マシン上にピクセル購入した人の名前が小さな白文字で書かれました(環境問題への賛同が条件で寄付金は必須ではありませんでした)。リアウイングには“myearthdream.com”とチャリティサイトのアドレスが示されました。
ホンダのエンジニアが初めて指揮を執って“低中速域でのダウンフォース向上”を目標にマシン開発を行ないましたが、シーズンオフのテスト段階からマシンの戦闘力の低さを露呈します。開幕後第7戦までずっとノーポイントと極端に成績が伸びず、チーム史上最悪の低迷期でした。第8戦フランスグランプリでバトンがようやく初ポイント(8位・1ポイント)を記録しましたが、結局獲得ポイントは6点に終わりました。コンストラクターズランキングは8位です。
この失態から、各分野での人材補強を進めるためベネトンやフェラーリでミハエル・シューマッハの走りを支え同年は休養していた、ロス・ブラウンをチーム代表に迎えることになりました。
2008年もバトン、バリチェロ共に残留、リザーブドライバー兼テストドライバーはアレクサンダー・ヴルツを迎えました。新代表に就任したロス・ブラウンは“3年計画”の活動を発表しました。ルーベンス・バリチェロとは2005年のフェラーリ以来の同僚になりました。昨年の“my earth dream”を継続した形の“earth dreams”コンセプトを発表しました。昨年とは異なる地球環境をテーマとしたカラーリングを用い、地球環境問題の意識向上を謳っています。
2008年度のマシン“RA108”も、開幕前から戦闘力不足が囁かれていました。予選ではなかなかQ3(最終セッション)に進むことができず、決勝でも入賞圏外から離れた位置でフィニッシュすることがたびたびでした。第9戦イギリスGPでは大混乱の雨のレースでタイヤ戦略が的中し、ルーベンス・バリチェロが3位入賞しました。自身3年ぶり、チームにとっても2年ぶりの表彰台でした。その後一度も入賞できず、コンストラクターズランキング9位でシーズンを終えました。

初めての“撤退”とチーム売却

2008年シーズン終了後、チームは2009年から搭載が可能になる運動エネルギー回生システム“KERS(カーズ)” のテストを進め、来期のドライバーにはバリチェロに代わり、アイルトン・セナの甥であるブルーノ・セナかルーカス・ディ・グラッシを起用すると噂されていました。しかし2008年12月5日、福井威夫社長が緊急記者会見を行い、2009年以降F1世界選手権シリーズから撤退する方針を発表したのです。サブプライムローン問題に端を発した金融危機による業績の悪化によるレーシングチームの維持費負担が、ホンダの経営を圧迫する恐れがあるため経営資源の効率的な再配分が必要であることが理由でした。なお、今回の記者会見では「2008年の成績不振や今後のレギュレーション変更が撤退の理由ではない」ことを明言しています。「休止」ではなく「撤退」という表現を使用したことについては、「自動車産業の新しい時代に対処するというメッセージが入っている」と説明しました。
ホンダはチームを解散せず、新オーナーへの売却によりF1参戦を継続することを目指していました。2009年1月12日にFIAが公表した2009年シーズンのエントリーリストには依然名前が残されていました。3月6日、チーム代表だったロス・ブラウンに全株式を売却し、新チーム“ブラウンGP・F1チーム”となりました。売却額が1ポンド(147円)と報道されたように実質的には無償譲渡に近く、2009年のブラウンGPの活動資金についても支援が行われたと言われています。
ホンダのチーム資産と“RA109(改めブラウン・BGP001)”を引き継いだブラウンGPは、2009年開幕戦で初出場、初優勝を遂げるなど、最終的にはダブル・タイトルを獲得しました。
撤退後の2009年、現在のホンダ社長である伊東孝紳は「経済的に回復してもF1に復帰することはない」と述べましたが、2014年からF1のエンジン規定が見直されることから“ホンダがF1に復帰するのではないか”という憶測が流れました。2013年2月の記者会見で、伊東は「F1のレギュレーションも変わりつつあり、一方で我々の事業も安定してきている」、「今は一生懸命勉強している最中です」とコメントしています。
なお、F1エンジンの開発を担当していた一部エンジニアは、2006年から2008年までF1プロジェクトの技術担当だった中本修平によってHRCへと招聘され、ロードレース世界選手権に参戦している“RC212V”のエンジン及び電子制御システム開発を担当しています。また撤退発表後も、ホンダの栃木研究所においてシャシ開発が引き続き行われていたことが2012年に明らかになっています。

満を持してのはずだった第4期

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2013年5月16日ホンダは緊急記者会見を開き、2015年よりパワーユニット(エンジンおよびエネルギー回生システム(ERS))のサプライヤーとしてF1へ復帰すると発表しました。2015年は第2期のパートナーだったマクラーレンのみと再び組むことになりましたが、独占契約ではないので2016年以降は複数チームへ供給する可能性もありました。 2015年2月10日には本田技研工業本社(東京都港区南青山)にて本田技研社長伊藤孝紳および新井プロジェクト総責任者が、フェルナンド・アロンソとジェンソン・バトンの両選手を同伴してF1復帰に関する記者会見を開きました。

2015年の低迷

F1に初めて参戦したわけでもないホンダが、なぜこれほどまでに厳しいシーズンを送ることになってしまったのでしょう。そこには、現在のF1が抱える問題が見え隠れしているように思います。

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レギュレーションは厳しく

F1は、2014年からエンジンに関する技術的なレギュレーション(規格)が大きく変わりました。過去に廃止したはずのターボと、2つの回生エネルギーシステムを併用した“パワーユニット”と呼ばれる次世代の動力機関に移行したのです。この新しいシステムがいかに画期的なものであるかは、2種類ある回生エネルギーシステムのうちのひとつ“MGU-H”と呼ばれるターボの排気熱を利用して作り出される熱エネルギー回生システムを、世界中のどの自動車メーカーもいまだに市販車に導入できていないことがなによりの証明になっています。その先進性こそが、ホンダがF1に復帰する一番の理由でもあったのですが...。

開発は制限され

ところが現在のF1は、ホンダが参戦していた80年代、2000年代初頭とは異なり、テストが制限されているだけでなく開発自体も自由に行うことができません。7年ぶりに復帰したホンダにとって、これが大きな足かせとなっているのです。80年代にホンダが築き上げた栄光には、本社の膨大な資金力による開発がありました。しかし、現在は開発費の高騰によってチーム運営が苦境に立たされている小規模チームを救う目的で、新しいパワーユニットを導入するための開発に制限を加えているのです。それがF1自体の魅力を失わせる一番の原因で、自分で自分の首を絞める結果となってしまっているのです。

F1 ホンダの歴代ドライバー

【第1期】
●ホンダ
ロニー・バックナム
リッチー・ギンサー(1勝)
ジョン・サーティース(1勝)
ジョー・シュレッサー
デビッド・ホッブス
ジョー・ボニエ
【第2期】
●スピリット
ステファン・ヨハンソン
●ウィリアムズF1
ケケ・ロズベルグ (3勝)
ジャック・ラフィット
ナイジェル・マンセル(13勝)
ネルソン・ピケ (7勝・1987年ドライバーズチャンピオン)
リカルド・パトレーゼ
●チーム・ロータス
中嶋悟
アイルトン・セナ (2勝)
ネルソン・ピケ
●マクラーレン
アラン・プロスト (11勝・1989年ドライバーズチャンピオン)
アイルトン・セナ (30勝・1988年、1990年、1991年ドライバーズチャンピオン)
ゲルハルト・ベルガー(3勝)
●ティレル
中嶋悟
ステファノ・モデナ
●ジョーダン・グランプリ
オリビエ・パニス(1勝)
デーモン・ヒル(1勝)
ラルフ・シューマッハ
ハインツ=ハラルド・フレンツェン(2勝)
【第3期】
●B・A・R
ジャック・ヴィルヌーヴ
リカルド・ゾンタ
オリビエ・パニス
ジェンソン・バトン
佐藤琢磨
アンソニー・デビッドソン
●ジョーダン・グランプリ
ハインツ=ハラルド・フレンツェン
ヤルノ・トゥルーリ
リカルド・ゾンタ
ジャン・アレジ
ジャンカルロ・フィジケラ
佐藤琢磨
●スーパーアグリF1チーム
佐藤琢磨
井出有治
フランク・モンタニー
山本左近
アンソニー・デビッドソン
●ホンダ
ルーベンス・バリチェロ
ジェンソン・バトン(1勝)
【第4期】
●マクラーレン
フェルナンド・アロンソ
ジェンソン・バトン
ケビン・マグヌッセン

同じ日本のF1チームだったトヨタとの差

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BFF1

正式には“パナソニック・トヨタ・レーシング”と言いますが、2002年~2009年の間、世界のトヨタもF1に参戦していました。ですが、計8シーズンのうちで13回表彰台に上ったものの優勝はありませんでした。“ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない”とまで言われたホンダとの差は何だったのでしょう。これには諸説ありますが、大きくふたつの要因があると思います。

拠点がケルンだったこと

F1は“サーカス”と呼ばれる通り、世界中を転戦するモータースポーツです。レースの世界では国際言語は英語ですので、トヨタチームは常に英語を使う人とそうではない人に分裂していたと言います。どんな世界でも、チームの団結無くして成功は生まれないでしょう。
特にF1の中心地は、高速道路網とヒースロー空港に近いオックスフォードの北部です。この地域には多くの大学があり、工学系の多くはモーターレーシングの上級職に就きます。そして国籍に関わらず英語を話しているのです。フランスでさえ航空交通管制はすべて英語で行なわれるように、英語は前提条件なのです。
拠点が近ければ、他チームや下請け業者からのリクルートは難しくありません。家を引っ越す必要もないし、子供を転校させる必要もありません。また、妻に別の仕事を探すよう頼む必要もありません。ところがトヨタは本部をケルンに置いたことで、ほとんどF1経験のない分野からリクルートするしかなかったのです。もしくは高額な報酬を支払って遠方から専門家を採用するしかなかったでしょう。ケルンは快適な都市で便利な場所ではありますが、ドイツ語を話さない人が家族を連れて引っ越すには問題が多いでしょう。

トヨタの社内体質

決してトヨタ社内の悪口を言うつもりはありません。あれだけの規模の会社を実に上手くコントロールできる組織体系が整っていると思います。ただ、それがF1にはそぐわないのではないかということです。これについては、ホンダが一番対照的かもしれません。だからこそ、F1で成功できたと言えるでしょう。“現場のことは現場にまかせる”という宗一郎氏の理念が、最前線にいるスタッフの志気を高め、困難を乗り越える原動力にもなっていたのでしょう。

最後にまとめ

いかがでしたか。ホンダのF1での挑戦と挫折、復活と栄光。でも現在はまたこの最高峰レースの場で奮闘しています。昨シーズンは褒められる結果ではありませんでしたが、ライバル達はもう1年前から開発してきていたのですから、巻き返しはこれからでしょう。もう一度、“ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない”と言わしめるほどの活躍を期待したいところです。