【イタリアのラリー魂「ランチア・デルタS4」】ミッドシップ4WDでグループB時代のラリーの主役となる!

かつてグループBという少量生産のクルマをベースにしたラリーマシンが活躍した時期がありました。本来は一般車が先でラリー車が後となるのでしょうが、勝負にこだわるメーカーは、ラリーのためのマシンを先に作り、規則をクリアするために一般仕様車を販売するというカタチをとったために、少量生産のスーパーカーが売られることになりました。その中でも異彩を放つのが「ランチア・デルタS4」といえます。

グループBでのラリーを制覇するために作られたマシン「ランチア・デルタS4」

WRCの総合優勝を狙うためだけに作られたマシン。

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グループBのランチア・デルタS4はラリーで勝つことだけを目的とされたマシンだった。

1982年から1986年まで、世界ラリー選手権はグループBというカテゴリーで競われていました。これは最低年間200台を生産したマシンで出場すればいいというFISA(国際自動車スポーツ連盟:FIAの下部組織)の定めた規則で行なわれたものです。それ以前はグループ4というGTカーを改造したマシンで競われていましたが、グループBでは生産台数が少なくていいということで、自動車メーカーがラリーのためだけに作ったとも言える少数生産のマシンを参加させた時代となりました。

イタリアの巨大自動車メーカー、フィアット傘下のランチアは1976年まで、伝説的な速さを誇ったランチア・ストラトスでWRCに参加していましたが、1978年からはフィアットの意向でフィアット131ラリーによるラリー活動が行われていました。しかし、1982年にグループB規定に合わせて、ランチア・ラリー037と呼ばれるミッドシップマシンを製作しWRCに復活。そのシルエットはランチア・ベータ・モンテカルロでしたが、アバルトチューンの4気筒DOHCにスーパーチャージャーを装備。それをミッドシップに搭載するというスーパーマシンでした。

イタリアはフィアット傘下にランチア、フェラーリなどのスポーツブランドを持つメーカーが入っており、特にランチアはラリーのイメージが強いメーカーだ。

1983年のタイトルをMR車の037で獲ったランチア。だが時代は4WDを求めていた!

グループ4とグループBの過渡期となった1982年、ラリーにはアウディがアウディクワトロを投入し4WD旋風を巻き起こしていました。グループBになっても、そのクワトロを進化させて参加しておりチャンピオンが有力視されていました。1983年、ランチア・ラリー037は健闘し、ワールドチャンピオンタイトルを手にしますが、ドライバーズタイトルはアウディクワトロのハンヌ・ミッコラの手中となりました。

欲しいモノ満載! デルタS4の開発計画が進められる。

外見はランチア・デルタに似ているがS4の中身は全く別物!

ランチアも当然、4WDが必要という状況は認識しており、1983年1月から4WDであるランチア・デルタS4の開発に取り組んでいました。一方のライバルであるプジョーが1981年からプジョー205ターボ16というミッドシップ4WDの開発を進めていたという背景もあります。ランチア・デルタS4(開発コードSE038)はシルエットは4ドアハッチバックの市販車ランチア・デルタに似せたものとしていますが、中身は全くラリー専用のスペシャルマシンとなっていました。

ミッドシップにスーパーチャージャーとターボチャージャーでパワーアップされた「トリフレックス」と名付けられたエンジンを搭載。それをフルタイム4WDで駆動します。エンジンはアバルトが仕立てたフィアットの1.759cc直4気筒DOHCエンジン。このエンジンは、ベータ・モンテカルロ・ターボでレースでもすでに使用しており、信頼性のおけるものでした。1.4Lバージョンでは1.6のブースト圧で420PS/8,000rpmでしたが、1981年には1.7Lツインターボバージョンとなり、490PS/8,000rpmを絞り出していました。デルタS4に搭載される際には、ボア/ストロークが88.5☓71.5mmで1,759ccのショートストロークエンジン。圧縮比は7:1となっていました。オイル潤滑はドライサンプ方式です。搭載方向は縦置きで、左側に約20度傾斜されてサブフレームに搭載されていました。

低回転域はスーパーチャージャー、高回転域はターボチャージャーでハイパワーを実現した。

もうひとつ注目されたのがスーパーチャージャーとターボチャージャーのツインチャージドエンジンとなっていたことです。スーパーチャージャーはエンジンのクランクシャフトによって駆動、過給されます。これは低中速回転では効果的ですが、高回転になると過給されたパワーよりもスーパーチャージャー駆動による消費が大きくなって効率が悪いという特性をもっています。逆にターボチャージャーは、排気圧力を利用してタービンを回しコンプレッサーで過給するという装置なので、低中速回転では効率が悪いですが高回転域では強力なパワーを発揮する手助けをします。デルタS4では両者のいいとこ取りをしたとも言えます。装着されたのはアバルトのスーパーチャージャーとKKKのターボチャージャー。最大過給圧は2.4でした。

エンジンはもちろんシャシーにも最新技術が盛り込まれる

パイプフレーム&ミッドシップ&ダブルウイッシュボーンサスペンションはまさにピュアレーシングカー!

4WDシステムに不可欠なセンターデフはプロトタイプの段階では前後のトルクをギヤで配分する機構のものが採用されていました。これはファーガソンのビスカスカップリングLSDが装着されるまでの暫定的なものでした。実戦ではこのビスカスLSDが前車輪と後車輪に必要用に応じて駆動トルクを配分し、ターマック(舗装)からグラベルまで、オールマイティな走行を求められるラリーに対応するようになっていました。

それを支えるシャシーは、クロームモリブデン製のパイプフレーム。剛性は同時代のF1に匹敵するとも言われました。その他S4のシャシーにはケブラー材のルーフパネル、ケブラー、ノーメックス、カーボンファイバーなどの素材を5mm圧のハニカム構造とし真空成形したものが接着接合されていました。4WDという機構は、重量増となりモータースポーツではそこが大きなデメリットとなりますが、最低車両重量は890kgに近くに抑えられていました。

サスペンションはフロント、リヤともにダブルウイッシュボーンとなっています。フロントはオーソドックスにスプリングとショックアブソーバーが左右に一対ずつとなっていますが、リヤにはショックアブソーバーが左右に二本ずつのダブルショックアブソーバーとして、ミッドシップによるリヤ荷重の増加に対応していました。パワーステアリングは油圧式ではなく圧縮空気を用いたタイプです。

遅れるWRC参戦……。開発が後れ市販車の製作販売が間に合わない。

1985年参戦の予定が遅れ、ようやく最終戦RACラリーに登場。

デルタS4の開発は着々と進む……とはいえないものでした。1984年の12月にはマシンとして一応組み上がっており、出場までは12ヵ月の余裕がありましたが、パーツが納期を過ぎても入ってこないなどのトラブルで生産は後れました。これはパーツが量産車からの転用が聞かないマシンの宿命ともいえました。1985年4月にマルク・アレンがテストしたときにはセンターデフはビスカスカップリングではなく機械式のままという状態でした。その時アレンは、ハンドリングと直進安定性の悪さを指摘したといわれています。その時点で、デビュー予定のフィンランドで行われる1000湖ラリーまで4ヵ月となっていました。

デルタS4は純粋なラリーマシンが先で、市販車はそのホモロゲーションに合わせるために作るというスタンスでしたから、そちらの方も喫緊の課題となっていきます。1985年の1000湖ラリーに参加させるには市販車のランチア・デルタS4ストラダーレを8月の締切りまでに200台を販売可能な状態にしておく必要がありましたが、6月の段階で50台しかできていませんでした。これで事実上1000湖ラリーへの出場は不可能になりあした。さらにサン・レモラリーにも参加できずに、11月下旬のRACラリーまで待つことになりました。一般販売されたストラダーレのエンジン出力は250HP/6,750rpmとデチューンされ、ターボチャージャーもスーパーチャージャーも小径なものが採用されていました。トランスミッションがラリーカーではクラッチ操作が不要で軽量なドッググラッチを採用したのに対し、市販モデルでは、通常のシンクロメッシュを用いたものとなっていました。トランスアクスルケースもラリーカーではチタンが用いられていましたが、市販車はスチールとコストダウンが図られています。車両重量1, 200kgと重くなっています。スウェードのステアリングやアルカンターラをあしらったインテリア、エアコン、パワステも装着されます。現在買おうとすると、値段がつけられないので「応談」ということが多いようですが、現地価格で20,000,000円から50,000,000万円程度はするようです。

デビュー戦でワンツーフィニッシュの堂々たるデビューを飾る!

1985年の最終戦となるRACラリーは英国王室の自動車クラブが主催する伝統ある一戦です。ライバルはプジョー205ターボ16、アウディクワトロなど。その中でデビュー戦でのデルタS4がどういう走りを見せるかは大いに注目を集めました。RACはSS(スペシャルステージ)が公園内や私道など普段は走れないステージが多く、さらに当日までどのステージを走るか分からないシークレット方式のラリーとして有名でもあり、準備が必要なデビュー戦として適したものとはいえませんでした。それでも、デルタS4は、新進気鋭のヘンリ・トイボネン、ラリー界のスーパースターであったマルク・アレンの手によってワンツーフィニッシュという華々しいスタートを切りました。

翌1986年の開幕戦はモンテカルロ・ラリーです。アレン、トイボネン、ビアシオンという体制でランチアチームは臨みました。アレンはラリー序盤からエンジンのミンスファイヤが続くトラブルに見舞われます。その後もトラブル続きとなりエンジンが不調なままのラリーとなりましたが、トイボネンとビアシオンは好調にステージをこなしていきます。しかし、トイボネンが、一般車と正面衝突を起こし大破。リタイヤを余儀なくされるところを、ランチアチームはこれを修復、大きく歪んだままのボディにも関わらずトイボネンはその後走りぬき優勝しました。

続くスウェディッシュラリーでは、アレンがまたしてもエンジントラブルを抱えます。原因はスーパーチャージャーにあり、これを交換した後は順調に走り2位入賞、トイボネンはリタイヤ。優勝はプジョーのカンクネンとなりました。その後のポルトガルラリーは暗い影を落とすイベントとなります。観客を巻き込む死傷事故が起こったのです。フォードRS200によるものでしたが、ランチアチームはこのラリーを危険であると判断しボイコットしました。第4戦となるサファリラリーはデルタS4ではなくラリー037での参加で、アレンが3位に入賞しランチアはチャンピオンシップポイントでトップとなりました。

高速ターマックのツール・ド・コルスで痛ましい事故が発生。

コルスで前途有望な若手ドライバー、ヘンリ・トイボネンを失う……。

第5戦のツール・ド・コルスは全線ターマックの高速ラリーとして知られたイベントです。ランチアはデルタS4をアレン、トイボネン、ビアシオンの必勝体制で参加しました。アレンとトイボネンのデルタS4は軽量化を施した新車でした。前年のこのラリーでは037に乗ったアッティリオ・ベッテガが死亡事故を起こしていたこともあり、徹底して練習走行を重ねての参加でした。ただし、超高速で狭い舗装コースを走るこのラリーではドライバーたちが危険を指摘しており、前年の死亡事故を踏まえ、オーガナイザーに危険なステージの削除などを求めていましたが、それが応じられませんでした。そして、その不安が的中しデルタS4のトイボネンとコ・ドライバーのクレストがコースアウトクラッシュし死亡という結果となりました。これが事実上グループBの終焉を決定づけるものとなりました。

ランチアチームはツール・ド・コルスから撤退。しかし1986シーズンの残りはアレンが奮闘し、ワールドチャンピオンシップを一度手に入れました。しかし、その年のサン・レモラリーでプジョーがホモロゲーションの問題で失格を宣告されており、プジョーもFISAに対して提訴している結果が出ていないという事情がありました。この裁定はシーズン終了後に判決され、サン・レモラリー自体が無効となってしまい、プジョーのカンクネンにチャンピオンタイトルが譲られるという皮肉な結果となりました。そして翌年からはより市販車に近いグループAに選手権タイトルがかけられるようになります。

まとめ

ランチア・デルタS4は不運なラリーマシンと言われることがありますが、それでも短期間ながら一時代を築いたマシンです。当時の最新技術を満載して強烈な速さを見せました。スタイルはお世辞にも美しいとはいえませんでしたが、独特のオーラを放っていたのは事実です。グループB時代は、プジョー205ターボ16、アウディスポーツクワトロ、フォードRS200などのモンスターマシンが続々と登場して、ラリーの一番華々しい時代となりました。12ヵ月に200台すればいいという参加規定は、メーカーの参戦するハードルを下げ、シトロエンBX4 TC 、MGメトロ6R4などが参加。日本勢でも三菱スタリオン4WDや、トヨタセリカGT-TS、日産240RSなどが参加しており、ラリーの古き良き時代を彩りました。

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ランチア・デルタS4はサーキットを同時代のF1並のスピードで走ったという話もある強烈なマシン。乗りこなすにはそれなりの腕を求められた。