【夢のスーパーカー】「童夢 ゼロ(零)」

かつてのスーパーカーブームが徐々に終息しつつあるなかで発表された「童夢-零」。待望されていた国産スーパーカーの誕生は国内だけではなく海外でも大きな話題となり、市販化前からラジコンやプラモデルが売り出されるなど子どもたちの心を鷲掴みにしてしまいます。しかし、この国産スーパーカーが世に送り出されることなく消えてしまいました。今回は、この「童夢-零」(ゼロ)を開発当時の場面から追いかけてみます。

外国製車両に染まった国内レースシーンに風穴をあけるべく「童夢-零」(ゼロ)開発スタート

日本のレース創世記、1965年5月「第2回クラブマンレース鈴鹿大会」でホンダ・S600を改造した「カラス」に後に伝説のカーレーサーとなった浮谷東次郎を擁して勝利した林みのる。その後、1975年から開発を開始したのが「童夢ゼロ(零)」でした。

時はまさにスーパーカー・ブーム。当時、スーパーカーと呼ばれたクルマはフェラーリやランボルギーニなどのイタリア車をはじめとする欧州勢ばかり。国産でそこに食い込んでいるのは既に生産を終了していたトヨタ2000GT程度という状況にあって、後にその完成車を見た子どもたちだけではなく開発に携わった人たちにも夢をもって臨んだクルマだったようです。

当時、既に乗用車としては国産車が強くなっていたものの、レースという場面を切り取るとフェラーリやポルシェなどの海外製マシンばかりの状況になっていて、国内のコンストラクターの多くは撤退などし始めていた時期でした。そこに「童夢ゼロ(零)」の構想が伝わると、フリーでレーシングカーのデザインを手がけ実績を積んでいたムーンクラフト代表の由良拓也、以前から林みのるとレーシングカーの製作を行っていた三村建治などが集まって童夢の開発がはじまります。その資金には、林みのるの従兄弟、林将一によって経営されていたホイールメーカー「ハヤシレーシング」がヒット商品の売上が投資されたそうです。

手作りのプロジェクトが生み出したプロトタイプカーが国際的な話題に!

プロジェクトと言ってもかなり身内の作業に近い状況だったようで、1976年ごろからはじめられたスタイリングの研究は大阪にあったハヤシレーシングの工場を借りての作業。スタッフは工場近くにアパートを借りていたのですが、ハードワーク状態の中にあってアパート帰るのは風呂に入るためという状況だったそうです。逸話として、スタッフの中に4人いた既婚者全員が奥さんに逃げられてしまったというのですから、風呂に入りに帰るというのがものの例えというレベルでは無いことがわかります。また、ボディの加工作業にあたってはFRPを加工する中で、その特有の匂いを勘違いされてしまって、近隣でガス漏れ騒動をでは、FRP特有の臭いをガス漏れ騒動を起こすなど、手作りのスーパーカー開発という状況でした。

そんななかでも、製作開始から約1年3ヶ月、1978年のはじめにプロトタイプ「童夢ー零」が完成します。そして、同時に林みのるを代表として「株式会社 童夢」が設立されました。完成したプロトタイプ「童夢-零」は、早速、その年の3月に第48回のスイス「ジュネーヴ・モーターショー」で公開されます。このとき、当初の展示スペースはショー会場の隅の方でしたが、冒頭のメディア公開日に「童夢-零」が大きなインパクトを与え、主催者からショー会場内でも目立つスポットへスペースの割当が変更されました。こうして設立間もない日本の無名のメーカーが手作りで作り出した第一作である「童夢-零」はブルネイの王室やジャッキー・チェン、レジー・ジャクソン(メジャーリーガー)など約20件の予約発注があったと言われるほどの反響を集めます。

「童夢-零」型式認定を採れず。市販化は頓挫!

自動車の排出ガス規制が強化されつつあった中で、「童夢-零」に寄せられた反響のなかで、童夢は市販化を目指します。競合として意識されたのは、フェラーリやランボルギーニのような大排気量のスーパースポーツとよりもロータス・エスプリなどの中型スポーツが対象でした。そのため価格帯としても1,000万円前後と想定されていたようです。

そして、多くの予約注文を受けたジュネーブ・ショーでの発表後は、国内での型式認定取得が次の目標となります。そのため、テスト走行が繰り返されたのですが、日本国内での型式認定取得を前提として国内法規に合わせたデザイン、製作だったのにもかかわらず、当時の運輸省では認定以前に申請さえ受け付けなかったそうです。このことで童夢は「童夢-零」は、認定取得をアメリカ目指そうとします。そして「DOME USA」を設立して、「童夢-零」のアメリカの法規制に適合させた仕様に変更したプロトタイプ「童夢P-2」を開発することになったのです。

思わぬ「童夢-零」のヒットが市販化を頓挫させた?

トミカリミテッド 童夢-零 0042

¥1,494

販売サイトへ

こうして、一旦、「童夢-零」の国内市販が暗礁に乗り上げる一方で、その存在は「ロイヤリティ収入」という形で利益を産み始めます。つまり子どもたちを中心に、プラモデル、ラジコン、そしてスーパーカー消しゴムなど200種類とも言われる関連商品の商品化申請が童夢に押し寄せて来るのです。その結果、童夢は10億円とも言われる収益を上げる事になります。そして、その収益で童夢は京都に本社ビルを設立します。

そして、このロイヤリティ収入は思わぬ形で「童夢P-2」にも影響を与えていきます。関連商品は、童夢に大きな利益をもたらしましたが、当然、それを製作・販売した玩具などのメーカーや販売店にも金のなる木になっていたのです。そこで玩具メーカーから童夢に対して「新型車を作って欲しい」という要望が上がってきます。通常なら、これが実車販売に向けて「零」を改訂した「P-2」での関連商品となるのでしょうが、童夢社長の林みのるは全く違う提案をしてしまいます「次もスポーツカーではインパクトがない。レーシングカーにしよう」と言ってしまうのです。

このことで童夢の開発はル・マン24時間レースへの参戦に参戦すべく「童夢-零RLフォード」に勢力が傾けられます。そしてその資金は玩具メーカーからロイヤルティーの前払いが充てられ、フォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したプロトタイプレーシングカーが完成します。

1979年のル・マン24時間レースに「童夢-零RLフォード」が実際に参戦します。その一方でP-2の開発は完全に放置されてしまい、「童夢-零」、そして「童夢P-2」と続いた市販化車両という目標は立ち消えてしまいます。

「童夢-零」とはどんなクルマだったのか?

では、「童夢-零」というクルマ、どのようなクルマだったのでしょう。まず、童夢では、インパクトを狙って「世界一全高が低いクルマ」を作るという目標を掲げます。この当時、既にアメリカには1,000mmの全高のクルマがあったため、「童夢-零」は全高980mmが目標となりました。そして、ボディは平面的なウエッジシェイプになっているため、室内は非常に狭くなっています。このため175cmを超える身長の人には乗降がとてもつらいものだと言われています。

そしてシャシーはスチール・モノコック、サスペンションはフロント・リアともにダブルウィッシュボーン+コイルが装備され、ガーリング製のブレーキはフロントにベンチレーテッド・ディスク、リアはインボードタイプのソリッド・ディスクを採用しています。また足回りは、ピースのアロイホイールにピレリP6タイヤが組み合わされていますが、フロントのサイズは185/60VR13、リアは255/55VR14という非常に大きな前後差がありました。

パワートレインとしてエンジンには日産製のL28型2,800水冷直列6気筒SOHCエンジンが採用され、これをミッドシップにレイアウトしています。組み合わされていたトランスミッションは、ZF製5速マニュアルが搭載されています。日産L28型エンジン、実はサイズも重量もパワーに対して鈍重なものと言えるのですが、「童夢-零」では国産にこだわっていたために他のエンジンという選択肢は無かったといわれています。

ハメ殺しのサイドウィンドウ

外装に使われたボディパネルはガス漏れ騒動を起こしたFRP製で、ヘッドライトはリトラクタブル・ヘッドライト、そしてドアはポップアップ式のガルウィングドアになっています。また、ドアウィンドウはハメ殺し、ただドアにスライドするアクリル部分があり、ここから高速道路の料金支払などを行うことにしていました。そして、ミッドシップに置かれたラジエターの冷却のためボンネットにエアダクトを設置しています。なお、ドアのリアサイドにつけられたエアインテークは、エンジン冷却のための外気取り込みのためにつけられていて、左側には2つ、右側に1つというアシンメトリーな構成になっています。

外観と同様に「直線」がイメージされたインテリアには、革巻きのステアリングホイール(一部、プラスチック製)、メーターには国産車で初だったデジタル表示、ウインカーは赤外線センサーがドライバーの手の動きを感知して点滅するという近未来的カーがイメージされています。なお室内にバックミラーはなく、ビタローニ製のサイドミラーで後方確認することになっています。

なんとなくですが、市販化よりもインパクトを狙ったような気がする構成になっている気がする内容です。

まとめ

結果として「童夢-零」も、そのリベンジとして開発がはじめられた「童夢 P-2」も市販されることはありませんでした。そして、林みのるも2012年に童夢の経営からは引いています。が、まだまだ自動車作りの情熱は冷めてはいないようです。もし、可能なら童夢-零、あるいはその後プロトタイプが作られながら、やはり市販化が頓挫してしまったジオット・キャスピタでも、レーシングカーよりも街で眼を惹くクルマを作ってほしいものです。林みのるさん、頑張ってください!