日野自動車が作った幻の伯爵夫人「コンテッサ」

日野自動車と言えば「日野の2トン」。トラック専業メーカーのようですが、かつては「日野ルノー」をはじめフランス・ルノーと連携しながら、善き乗用車を作っていた時代がありました。今回は、その日野自動車が作った貴婦人「コンテッサ」を紹介しながら、その中で作られていた「幻の名車」も紹介したいと思います。

最初のシリーズ「コンテッサ900」

1953年、フランス・ルノー公団からのノックダウン生産からはじまった「日野ルノー」。5年後の1958年には完全国産化を達成し、日野自動車に乗用車生産のノウハウが蓄積されます。そして1961年、ついに日野自動車が自主開発したクルマが「日野コンテッサ900」でした。ただベースとなるプラットフォームは、1956年から生産されていた「ルノー・ドーフィン」のものが使用されています。

「日野コンテッサ900」は出力35馬力、最大トルク6.5kgm/3,200rpmの排気量893ccのガソリンエンジンを搭載し4ドアセダンとして売りだされます。駆動方式はRR式ながら、この駆動方式では珍しい、コラム・シフト式の3速マニュアルのトランスミッションが採用されています。また、オプションながら電磁式自動クラッチの2ペダルマニュアル「シンコー・ヒノマチック」も用意されていました。

スポーツカーにも負けないセダン。高性能車両

コンテッサの最高速度は110km/hに達しながら、燃費は20km/リッター前後と非常に優秀なスペックで、足回りにはフロントにウィッシュボーン/コイルスプリング、リアにはスウィングアクスル/コイルスプリングの4輪独立懸架が与えられています。また、リア・サスペンションはラジアスアーム付きで車体のロールが抑えられるなど、コンテッサのカタログには「世界的有名スポーツカーと肩を並べる安定性を示します」と書かれているほどの出来栄えでした。

ミケロッティがデザインした外観の特徴はフロントグリルレスに丸型2灯ヘッドランプがつけられ、サイドにはエアインテーク、テールにはフィンが取り付けられていますが、リヤドアの後端のラインの延長からフェンダーを一段高くすることで、リアに取り付けられたエンジンを冷却するため、フェンダーの段差によってできた隙間をエアインテークに空気を取り込んでいます。

実際、「コンテッサ900」の性能は1963年、第1回日本グランプリのツーリングカークラスでの優勝によって証明されていますが、日野ルノーでの経験にプラスするかたちで高性能なコンテッサは日野ルノーが多用されたタクシーでも数多く使われていたようです。

「コンテッサ900」は初年の1961年の生産台数だけで9,249台が販売され、1965年まで生産が続けられています。

モンスターマシーンにガチンコ勝負を挑んだ「コンテッサ」

さて、その日野コンテッサ900のレースでの成績を書き記しておきましょう。コンテッサが華々しい活躍を見せたのは1963年の鈴鹿サーキット開催、第1回日本グランプリでした。このレースには日野コンテッサ900だけではなく、日野自動車にとってもお手本となっていた本家ルノーのスポーツ・モデル「ルノー・ドーフィン・ゴルディーニ」、そして排気量で勝る「DKW1000」などの強敵を抑えて優勝してしまいます。また、1,300cc以下のスポーツカー・クラスとしても「オースティン・ヒーリー・スプライト」や「ダットサン・フェアレディSPL」といったスポーツシーンに向けて作られたクルマを敵にまわしての勝負となり、結果としてDKWに続く2位という大善戦を繰り広げていたのです。その上、このレースでのスピード勝負となるポールポジションの獲得、そしてファステスト・ラップも日野コンテッサ900のものでした。この4ドアセダンが恐ろしい実力を秘めていたことは明らかです。

そして翌1964年には、エンジンの排気量は985ccにサイズアップされ、ツインキャブレターを装備、高圧縮比ヘッドで、足まわりもサスペンションを強化し、トランスミッションも4速へと換装されたレース仕様車「コンテッサGT」を持ち込みます。日本グランプリでは「三菱コルト」の後塵を拝することになりますが、レースに使われたクルマは、アメリカ人レーサーのロバート・ダンハム選手によってアメリカに輸送されます。そしていきなりの出場となった「リバーサイド3時間耐久レース」でクラス2位入賞を果たします。そして、1カ月後、ウィロー・スプリングスでのヒルクライムレースに参戦、BMWやミニ・クーパー、そしてMGなどの強敵と出会うことになります。その結果、エントリーした1,100cc以下のクラスでは優勝、総合では4位という戦果を上げます。このレースの表彰台に上がったのは、フォード・マスタング(V8エンジン搭載)が2台、そして274.84km/hのスピード記録など様々な記録を作っていたスチュードベーカー・アヴァンティというモンスターマシーンだけだったという、恥じる必要のない4位だったのは特筆に値するものだと思います。さらに、デル・マーでのレースにも出場、1,000cc以下クラスで優勝し、総合ではミニ・クーパー1275・S、MG1100、そして日野コンテッサGTが3位という結果でした。このようにヨーロッパを代表するライトウエイトスポーツや、モンスターマシーンを相手に善戦する日野コンテッサはアメリカでも注目をあつめる快挙だったそうです。

【諸元】
販売期間:1961年〜1965年
乗車定員:5人
エンジン:GP20型  893cc直列4気筒35ps
駆動方式:RR
全長:3,800mm
全幅:1,480mm
全高:1,420mm
ホイールベース:2,150mm
車両重量:750kg

幻のワンオフモデル「コンテッサ900スプリント」

日野自動車は1962年、「幻の名車」を発表します。「コンテッサ900スプリント」と名付けられたクルマは4ドアセダンのオリジナル・コンテッサとは全く違うフォルムとしてジョヴァンニ・ミケロッティによってデザインされた2ドアクーペで、シャシーはオリジナルを流用しつつ、エンジンとサスペンションはイタリアのパーツメーカー、ナルディの創業者「エンリコ・ナルディ」によってチューンナップされ45馬力にまでパワーアップされていました。この結果、最高速も150km/hにまで引き上げられています。

コンテッサ900スプリントは、1962年10月にトリノモーターショーに出展され、翌1963年にはニューヨーク国際オートショーに出展されるなど海外のモーターショーを巡回展示されています。この目立つボディは、これらのモーターショーの中で注目と高い評価を得て、凱旋帰国となった第10回東京モーターショーでは、参考出品されます。しかし、この高い評価はヨーロッパの自動車メーカーに脅威を与え、予定していたイタリアでの生産は立ち消えになってしまいます。そのため、コンテッサ900スプリントはショーモデルのみのワンオフモデルとなり、市販されることなく「幻の名車」の名車となってしまたのです。

【諸元】
販売期間:-
デザイン:ジョヴァンニ・ミケロッティ
乗車定員:4名(2+2)
エンジン:GP20型 893cc直列4気筒
最高出力:50ps/5,500rpm
駆動方式:RR
全長:3,830mm
全幅:1,470mm
全高:1,200mm
ホイールベース:2,150mm
車両重量:650㎏

「オール日野自動車」化された「コンテッサ1300」

「コンテッサ900」は、1964年9月に「コンテッサ1300」へとフルモデルチェンジされて発売されいます。ボディタイプは900と同じ4ドアセダンのみでした。

ルノー8にも似たコンテッサ900は、ルノー8の2灯式に対して4灯のヘッドライトが備えられ、ピラーは細くリアデッキは長いミケロッティによる優美なデザインが特徴でした。このデザインは評価が高く国際エレガンスコンクールなど幾つものコンクールで受賞を繰り返しています。

このコンテッサ1300のエンジンは本格的に日野自動車が自社設計した総排気量1,251cc、出力55psのGR100型を搭載してています。このGR100型エンジンはロングストロークOHVですが直列4気筒、5ベアリングのクランクシャフト、ダブルロッカーアームによるクロスフロー弁配置という高速型のエンジンでした。そしてシリンダーの全高が高いことや排熱対策のためにエンジンルーム内で露出している排気管を短くし、エンジンブロックを傾けてレイアウトしています。

エンジンの冷却に施された工夫の現れたリアフォルム

コンテッサ1300のラジエーターは、それまでのエンジン前方におかれたレイアウトから、エンジンルーム後方に変更されました。これは、エンジンに対する冷却気の導入に対して大きな見直しが必要になったことを意味しています。

このため、日野自動車ではミケロッティに対してラジエーター冷却のため、車体前方に向けた形で約1,500平方センチメートルの冷却空気取入口の設定を付けていました。技術陣の意図はコンテッサ900スプリントのリアフェンダー前に開けられたエアインテークのような形状を意味していたのですが、ミケロッティは、リアフェンダーに大きな突起物として口を開けたような形状でした。これを日野自動車では「ミケロッティのふてくされ」だと一種の抗議として理解したようです。

そしてもう一つの障壁が立ちはだかります。この頃、フランス・ルノーでの「ルノー8」の情報が日野自動車にもたらされます。ルノーと日野自動車とは良好な関係ながら、コンテッサ900がルノー4CVやドーフィンと類似性があるとクレームがつけられ、チェックまで受けています。そのため、ルノー8の情報は模倣や視察というよりも、同じような事が起きないようにするため類似性を廃することに重きが置かれていました。ここで得られた情報はルノー8でもラジエーターがエンジンルーム後端に設置されることが判り、その冷却のためには、ボディのリア上部から取り込む形をとっていることが判りました。つまり日野自動車としてはコンテッサ1300に、このルノー8と同じような吸気を採れないということになります。

そこで日野自動車は、ミケロッティの「抗議(?)のデザイン」でもなく、またルノー8でもない方式でラジエーターへの冷却用外気の取り込み方法を検討しなくてはなりませんでした。そのため、慶応大学と共同で基礎的調査実験などを行い、床下に抜いた空気やエンジン排気を再び吸い込まないようにしながら、リアエンドのグリルから冷却用外気を取り込む方法に行き着きます。こうして技術陣が求めていた冷却性能を満たすエンジンルームができあがったのです。

高性能でも主流は「フロントエンジン」へ

こうして出来上がったコンテッサ1300。セダンモデルの公称最高速度は135km/hとなり、そのハイスペックを支えるためシャシーも大きく改良され、コンテッサ900であった操縦安定性の弱点も改善されています。またブレーキは国産車初となるフィスト型ディスクブレーキが前輪に採用されています。

当初の4ドアセダンではデラックスモデルとスタンダードモデルの2タイプがあったのですが、外観上の相違点は、デラックスモデルではヘッドランプが4灯、スタンダードモデルではデラックスのライトベゼルを流用しながら、外側寄りのみを使った2灯でした。現存している車両ではスタンダードモデルが非常に少ないようで、残念ですが画像でもお伝えできない状況です。

そして1965年、2ドア4人乗りクーペがラインナップされました。クーペではエンジンの圧縮比を8.5から9.0に上げることで、最高出力は65psへとパワーアップ、最高速度145km/hとなっています。コンテッサ900スプリントを思い起こさせるような低く流麗なフォルムは1960年代の日本車の中で特筆すべき優美さでした。

ハイパワーかつ流麗なデザインは海外でも売れるクルマとなり、少量でしたがヨーロッパ向けの輸出に回されています。その一方、この時期には1,000cc以上の小型乗用車ではリア置きエンジンが時代遅れとなっていて国内での販売実績は思うように伸びなかったのは悲しい事実です。そのこともあって、1967年、日野自動車がトヨタ自動車と提携した翌年には提携先のトヨタとの競合回避として生産を中止します。

【基本情報】
販売期間:1964年〜1967年
デザイン:ジョヴァンニ・ミケロッティ
乗車定員:4人/5人
エンジン:GR100型 1,251cc直列4気筒55ps
駆動方式:RR
全長:4,150mm
全幅:1,530mm
全高:1,340〜1,390mm
ホイールベース:2,280mm
車両重量:940kg

まとめ

トヨタとの提携が行われた1966年、日野自動車は1,500ccのエンジンをコンテッサ用に試作しており、後にコンテッサ1500として販売する予定でした。結果、このエンジンも幻に終わり、現在は東京都八王子市の「日野オートプラザ」に展示されているだけだそうです。

市販車両は紹介したコンテッサ1300が日野自動車として開発・製作した最後の乗用車になっています。RR式などの理由で不発な状況で終わったコンテッサ1300でしたが、今後、もし乗用車の生産再会することがあれば、是非、この伯爵夫人という名称で復活して欲しいと思った1台です。