【プアマンズロールス】「いすゞ・フローリアン」は何故、地味な存在だったのか?

2度のマイナーチェンジを受けて、15年間の長きにわたり生産され続けていた「いすゞ・フローリアン」。大衆車ベレットの上位クラスとして開発された中型乗用車です。長い生産期間の中で、地味な存在になってしまいましたが、当初は日産ブルーバードやトヨタ・コロナに戦いを挑むべく意欲的な開発を受けた車両だったのです。今回は、そのフローリアンについてマトメてみます!

フラッグシップ「いすゞ117」の母体となった「いすゞ・フローリアン」

乗用車開発の初期にノックダウン式の生産を手がけたイギリス車ヒルマンに続く形で、オーソドックスなファミリーサルーンの開発を意図していた「いすゞ」は、1966年10月、13回目を迎えた東京モーターショーに後の117クーペとなる「117スポーツ」がプロトタイプ出品されたのと同時に1台のサルーンカーも出品していました。このクルマは「117サルーン」と名付けられていて、117スポーツの母体とも言えるものでした。デザインは、フォルクスワーゲン・カルマンギアのデザインを担当したカロッツェリア・ギア。後にジウジアーロが移籍することで更に有名になるイタリアのカロッツェリアですが、この117サルーンのデザイナーはフィリポ・ザビーヌが担当しました。このファストバックのサルーンカーが後の「いすゞ・フローリアン」だったのです。

ヨーロッパテイストを前面に出した「初期」フローリアン

東京モーターショーでの出品から1年、1967年11月に「いすゞ・フローリアン」が市場に投入されます。印象的だったファストバック車両は前後ともに逆スラント形状に改められ、また丸型4灯式だったフロントランプは大型の異型角形ヘッドランプへと変更されています。全体にはヨーロッパ車のイメージを強めた感も強く、当時にあっては比較的目立つクルマだったようです。そして、フロントグリルには「アイマーク」と呼ばれた2つの縦長楕円を円で囲み分銅にも見えるエンブレムを配置しています。

この「フローリアン」という車名はオーストリア皇帝が持つ純白の愛馬の名前であり、その白馬の名前は、聖人「フロリアヌス」に由来という由緒正しきものでした。ちなみに、この馬は「子鹿のバンビ」で有名な児童文学作家フェーリクス・ザルテンが書いた「白馬フローリアン」という作品にも登場しています。

また、当初はアイマークだったエンブレムですが、派生車種の117クーペではジウジアーロが思う東洋を象徴する動物として採用しデザイン化したものですが、フローリアンの後期型では一部の車体に馬のエンブレムを採用しました。これはこの白馬「フローリアン」をイメージしたエンブレムです。

初期フローリアンのエンジンはガソリン1,600ccを搭載

初期型フローリアンのエンジンは、べレットGTの1,600ccOHVガソリンエンジンに対して扱いやすさを重点にチューンアップしたものを搭載していました。また、トランスミッションは当初は3速のマニュアルのみでしたが、翌年1968年に4速マニュアルに変更されています。

セダンの外観は、横長コンビネーションランプを後部ランプとして、ブレーキランプとウィンカーを兼ねたテールランプにバックアップランプを組み合わせています。ライトバンでは、この横長コンビネーションランプが跳ね上げ式のバックドアのスペースで取り付けることができなくなるのが通常ですが、セダンと同様の横置コンビネーションを採用しています。ただ、ブレーキランプとウィンカーを兼用した小型ランプの下部に丸形のバックアップランプを別体で装備する策をとっています。ちなみに、このバックアップランプはワスプやエルフとの共用パーツになっています。

無難な機構を採用して「オーソドックスなファミリーサルーン」を実現

駆動方式には117クーペと同様、一般的なFRを採用したフローリアンですが、サスペンションは、先に世に出ていたべレットが一部を除き四輪独立懸架を採用したのに対して、フロントにダブルウィッシュボーン + コイルスプリング、リアはリジッドアクスル + リーフスプリング を採用、そしてリサーキュレーテッドボール式のステアリングギアという枯れた技術を採用しています。つまり技術的にはベレットに対して後ろ向きな仕様を採っているのです。これは、当時、ベレットがリアサスペンション原因で転倒する問題を抱えていた事が理由でした。ベレット自体は対症療法のような方策をとることで一応の解決をみていたのですが、根本的解決というには程遠い状況だったため、同じ轍を踏むことができないという事情から、やむを得ず後継車であるフローリアンの開発にあたって後輪独立懸架での開発を中止していたようです。ただ枯れた技術を採用したお陰で、フローリアンのフロント・リアの接地バランス、そしてロードホールディングは大変成熟した状態にありました。つまり、路面をホールドする限界点での挙動は素直にドライバーに伝えられ、そのことで安全性も担保されたのです。また、元来の開発コンセプトが「オーソドックスなファミリーサルーン」とされていたフローリアンにとって、ファミリーカーとしての当たり前の操縦安定性や耐久性をもたせるということが重要なポイントだったので、ずば抜けた先進性や戦闘力ということよりも手堅くまとめた設計を重要視したということなのでしょう。

ベレットGTの後継をラインナップ

初生産から2年後、1969年3月に初のマイナーチェンジが行われます。ここでフロントグリルのデザインが変更されます。また、上級モデルでは5速マニュアルがラインナップされています。さらにライバルと見ていたブルーバードSSSに対抗すべく、ホットモデルとして「TS(Touring Sports)」もラインに加えられます。
このTSはベレット用の1,600cc(ガソリン)エンジンが流用されていて、オプションでつや消し黒ボンネットを装備できたり、4灯式丸型ヘッドランプを採用したフロントデザインなどでベレットGTと同じ雰囲気を漂わせ、他のグレードよりも戦闘的な形で差別化を図っていました。

マイナーチェンジで「中期」フローリアンに変身!

1970年10月に二度目、そして比較的大きなマイナーチェンジが行われます。この代の車体を「中期型」と呼んでいます。この時、TS以外で採用されていた異形2等式角形ヘッドランプが全グレードで丸型4ヘッドランプに変更されています。但し、同じ丸型4灯でもTSのマスクと相当に雰囲気の違う、言うなればメリハリのきいた造形をとっています。また、樹脂成形技術の向上で立体的な造形や部品点数を減らす観点で、この当時の他のメーカーでも増えていた樹脂一体成形のライトベゼルやグリルを金属プレスのパーツから置き換えています。

ボティタイプ別では、セダンのリアまわりは1969年の初期モデルとほぼイメージが踏襲され変更点はすくないものの、バックアップランプとリフレクター、そしてリフレクター脇のガーニッシュはフォルムを変更しています。また、全体的には、ラグジュアリー感を増すため、フロント・リアのフォルムを大きく見せるようなデザインを行っているのですが、これは、初期オリジナルから大きく変更されていないボディーラインと合わせると違和感のあるアンバランスな雰囲気が強くなってしまいました。このことでカロッツェリア・ギアがデザインした初期モデルに漂うイタリアンカーのノーブルな雰囲気が失われてしまったと見る人も少なからずいるようです。

1,800ccガソリンエンジン搭載モデルを追加

中期型から従来の1,600ccSOHCガソリンのPA20型に、1,800ccSOHCガソリンエンジン車で、パワーアップを図ったPA30型が加わります。PA20型だったTSモデルは差別化を図っていましたが、PA30型への移行に伴ってTSへの差別化戦略はなくなり、全グレードが共通スタイルになっています。ただ、フローリアンにとって、このマイナーチェンジは、当時は比較的頻繁にモデルチェンジ、それもフルモデルチェンジを繰り返すのが通例になった他社の車種に比べてみると、「手直し」というレベルでしか変更を加えなかったフローリアンは、これ以後、販売的にも非常に苦しくタクシーや教習車などの法人顧客の需要に頼る状況に陥ります。

このマイナーチェンジの後、1973年11月にもマイナーチェンジが行われます。この変更では、フロントターンシグナルは中期型117クーペと共用化され、ボディタイプにライトバンが追加されます。ただ、ライトバンは予定する生産台数がセダンより少なかったので、ライトバン用の新しい金型製作の予算を採ることができず、テールランプの形状は旧モデルを使い続けざるを得ませんでした。そして、そのテールランプの下に独立した形でアンバーにレンズ色を変更したバックアップランプをリアウィンカーに転用しています。そして、正規のボディからは消し去られたバックアップランプはバンパーに吊り下げられる汎用品を使うという、かなり厳しい作りになってしまいました。

ラインナップを縮小しつつ、LUVとのパーツ共有で延命化

なお、この時点で1,600cc搭載モデルが廃止となってます。そして、1975年11月に昭和50年排出ガス規制の適用によって対応のハードルが高いと考えられたスポーティ仕様のTS、そして、1800DXオートマチック仕様がカタログから消え廃止となっています。こうした形で「先細り感」を明らかにするように、1976年9月に行った昭和51年排出ガス規制での適合の結果、フローリアンとしてのグレードは5速マニュアルでクーラー付の豪華仕様の1800スーパーDXのみになってしまっただけではなく、車体色もマルーンだけという本当の意味での「完全1車型」で、他のバリエーションが全くない状態になってしまいます。ただ、いすゞワスプの後継として生産されることが決まったピックアップトラック「ファスター(シボレー)・LUV」は、いすゞにはベース用コンポーネントがフローリアン以外になかったために、シャシーやパワーユニットだけではなく、ボディーパネルにいたるまで部品の多くが流用され、開発コストの抑制が図られると同時に、フローリアンの延命に繋がりました。

再びマイナーチェンジで「後期型」に進んだフローリアン

後期型と呼ばれる「シリーズ2(S-II)いすゞ・フローリアン」は1977年11月のマイナーチェンジモデルとして誕生します。外観は、フロントグリルが独立して大型化が行われた上にメッキ仕上げになっていて、ヘッドランプは当時の流行にあわせ規格型の角型4灯として丸型を止めてしまいます。また、フロントグリルに合わせるように、バンパーも大型化されています。リアフォルムは、セダンではフロントの意匠に合わせたリアエンドは垂直になりリアバンパーも大型化し、リアコンビランプについても横長のまま、より大きなものに変更されました。そしてライトバンについては、バンパーの大型化以外は一切変更を行っていません。この変更は、全体としてのバランスやコンセプトが見えづらく、「無国籍な印象」と言われるものになってしまいました。そして、厳しい言い方なのかもしれませんが、一部に「ハリボテ」と言われる変更でした。

コストなどを重視するあまり、大掛かりになってしまうボディー外板の金型の変更は一切行われていませんし、すべての変更が、ねじ止め部品を上からかぶせることで行われているという状態でした。そして、このコストダウンは機能上の進化に予算を振り向けることもなく、内容の充実もほとんど見られない残念なものに終わっています。

プアマンズ・ロールスと呼ばれたフローリアン

こうした変更は、雰囲気だけは変わったものの、当時としては決して良いイメージが無かったイギリス車(技術・品質・デザインの各方面で低迷しており、ロータスも「エリート」製造などで苦労せざるを得なかった時代でした)を想像させる威圧感だけはあったのですが、車幅やボンネットサイズと決してバランスがとれておらず、後付感の強い変更箇所は「オーバーデコレーション」や「悪趣味」とも言われる状態にでした。この状況は「プアマンズ・ロールス」と言われるほどですが、この愛称は初期のフローリアンをデザインしたカロッツェリア・ギアによる「カルマンギア」を連想する愛称でした。この「カルマンギア」は「プアマンズ・ポルシェ」と呼ばれました。しかし、決して後ろ向きなものではなく、むしろ若者層の手が届くスポーツカーとして前向きな意味を持ったのです。しかし「プアマンズ・ロールス」にはカルマンギアとは対照的に、ネガティブな意味が強い愛称になってしまいました。

この時、車名もフローリアンS-IIに改称されているのですが、ダッシュボードは、初期型からと同じ左右対称型のまま、クーラーも助手席のグローブボックスに内蔵されたままと機構が大きく更新されるような変更は与えられていません。

ディーゼルエンジン搭載で、一矢報いた「いすゞ・フローリアン」

ただ、明るい面が皆無だった訳ではありません。いすゞは日本ではじめてディーゼルエンジンを量産乗用車ベレルに搭載したメーカーでしたが、当時のいすゞには乗用車への経験が不足していて騒音や振動などディーゼルエンジンの欠点が如実に現れてしまった苦い思い出がありました。しかし、ディーゼルエンジンの技術も上がり、また戦前からディーゼルに強みを持っていたいすゞはC190型1951ccディーゼルエンジンをフローリアンに搭載したモデルを追加します。かつての苦い経験から、フローリアンの静粛性を上げるために、燃料噴射ポンプの駆動方法をギアトレーンからコグドベルトに変更し、またエンジンの停止方法もエルフが燃料カット方式をとっていたところから、振動が少ない電動インテークシャッターによる吸気カット方式に変更しました。また、QOS(クイック・オン・システム)というエンジンスタート時の予熱時間がほとんど要らないシステムとの組み合わせもあり、ディーゼルエンジンについての先進性、専門性を活かしたいすゞならではの仕様になったのです。また、オイルショックによるガソリン価格の高騰や省エネムードの高まりもあり、このディーゼルエンジン搭載モデルは一定の評価を得ることができ、1978年には6,195台を販売していますが、ここにはディーゼルエンジン搭載モデルが大きな貢献をしています。

しかし、この時期には日産ローレルが1978年11月に、トヨタ・マークIIは1979年10月にディーゼルエンジン搭載モデルを追加し、ライバル車でもディーゼルエンジンが使えるようになったことや、フローリアンが1967年の設計なのに対して、これらライバル2車は当たり前ですが最新の技術やデザインが取り込まれたモデルな上に、パワーステアリングとAT車が設定されていたために、フローリアンがようやく手に入れた競争力はあっという間に「当たり前」のラインに引き下げられてしまい、販売台数は再び厳しい状況に晒されてしまうのです。

まとめ

この後も、昭和54年排出ガス規制への適合や、ステアリングホイールをジェミニと共用化、更に1980年3月には左右対称のダッシュボードを廃して、117クーペと同様のデザインへ変更した上、ようやく冷暖房に除湿機能付きのエアコンが設定されたりなのどの改良が続けられました。しかし、1981年には年間の販売台数490台を記録するなど、不人気車のまま1982年10月、とうとう生産終了の時を迎えています。

しかし、フローリアンで「ディーゼルのいすゞ」というポジションが認められ、のちに大ヒットとなるジェミニなどへ繋がったのではないでしょうか。そういう時の流れを考えると、現在のいすゞが乗用車を作っていないことが残念でなりません。