【117クーペの後継】いすゞ・ピアッツァは80年代を代表するカルトカーだった

「いすゞ」。この車名から「177クーペ」と答えるクルマ通も多いはず。長年、いすゞのフラッグシップを勤めてきた117クーペが退いた後を埋めた後継車が、今回紹介する「いすゞ・ピアッツァ」です。斬新かつ未来カー的なフォルムをセールスポイントに登場したのがピアッツァ。果たして117クーペの跡継ぎとして活躍はできたのでしょうか?

いすゞ・ピアッツァというクルマ

いすゞにとって、1968年から発売を開始した117クーペがフラッグシップモデルとして君臨してきました。その王座を受け継ぐべきニューモデルに、デザイナーとして117クーペと同じジョルジェット・ジウジアーロを選び計画を開始したのは1978年のことでした。

ジウジアーロは、「アッソ・デ・フィオーリ(クラブのエース)」と名付けた意欲的なモデルカー作り上げ、1979年のジュネーブモーターショーに出展します。このクルマは来場者の注目を集め、2年後の1981年いすゞは「ピアッツァ」として商品化をします。

通常、モデルカーをベースに商品化をする場合、内部機構との調整や生産性、コストなどで大幅に見なおすことが当たり前なのですが、いすゞはアッソ・デ・フィオーリのサイズを拡大し、細かなリファインをおこなったただけで、ほぼ忠実にモデルカーのデザインを踏襲しています。これは、それまでのジウジアーロとの長い関係性も影響しているのでしょうが、ジュネーブモーターショーの反響をセールスに繋げることに重きを置いた結果だったのではないでしょうか。

ジウジアーロのデザインは「流れるような」フォルム自体も魅力的でしたが空力特性も高く、CD値で0.36と非常に良い数値を叩きだしており、当時の道路運送車両法で規制されていたためにサイドミラーがフェンダーに取り付けられているのが妙に目立ってしまうものでした(1983年に道路運送車両法改正がされたところで、ドアミラーに変更されています)。

また、外観と同時に内装もアッソ・デ・フォーリのデザインが引き継がれた「サテライト方式」が採用されており、ステアリングホイールから手を離さなくても、エアコンの調整やハザードライトの点灯など様々な操作が可能になっていました。また、メーター類はデジタル表示になっていて当時としては斬新かつ「未来」を強烈に感じさせるデザイン特性を持っていました。

更に、目につかないところでもモデルカーに搭載されていた機構が取り込まれています。まず、エアコンの吹き出し口だけ取り上げても、運転席側のフロントウインドー下の部分から約10cmもせり上がり、運転席の足元にある吹き出し口は回転・開閉し、助手席の横にある吹き出し口もせり出し式になっていて、「遊び心」では済まないくらい凝ったところでも力が込められていた印象です。また、当時は珍しかったオートエアコン、ウォッシャーノズル内蔵ワンアーム式フロントワイパー、そしてマルチドライブモニター、パワーウィンドウ、そして車速に反応して低速時(軽め)、高速時(重め)とステアリング感を変化させる「車速感応型操舵力可変パワーステアリング」、また後部シートにも3点式シートベルトが採用され電装系の充実や安全対策で先進性をアピールしていました。

機構にも斬新な取り組みを見せたパワーユニット

外観は、ロングノーズの3ドアハッチバック。内部には、117クーペの2,000ccのSOCH、G200ZNS型エンジンと、初代ジェミニZZの1800ccDOHCを1949ccにサイズアップしたDOHC、G200WNをFRで駆動させ、G200ZNSの出力は120ps/5,800rpm、G200WNでは135ps/6,200rpmとされています。スペックだけなら、それほど驚くようなものではありませんでしたが、G200WN型エンジンには世界初の機構が満載されていました。まず、エアフローメーターにホットワイヤを採用したのが世界初、そしてクランク角センサにはフォトダイオードを使用した無接触式を採用、ECUはダイアグノーシス機能をもたせ、いずれも世界初の搭載でした。

トランスミッションは、5速マニュアルと4速オートマチックの選択で、オートマチックはアイシンワーナー社が系列のトヨタ以外のクルマに提供したのは、このピアッツァが最初のことでした。サスペンションはは、フロントにダブルウィッシュボーンとコイルスプリングの組み合わせ、リアには3リンクリジッドにコイルの組み合わせ、フロント・リア輪共にスタビライザーが付きです。なお、ホイール・アライメントは年式やグレードで細かく変更されています。

ステアリング用のギアボックスは、当初は一部のグレードがバリアブルギアレシオのマニュアルステアリングでしたが、これは後に全てのグレードで先ほど書いた車速感応型パワーステアリング装備に変更されています。

ピアッツァの競争相手は超人気車のソアラ! 

1982年にマイナーチェンジで、サイドミラーがドアミラーに変えられた後の1984年、パワーユニットに変更が加えられます。先ほど書いたように、最高グレードでも135ps/6,200rpmでは数値的なアピールが足りないこともあり、アスカに使われていたエンジンをベースに2,000cc電子制御式ターボ付SOHC(4ZC1-T型)がラインナップに追加されます。このエンジンは当時のSOHCエンジンとしては日本で最高の馬力、180psを持っており営業面での戦闘力も上げています。

ただ、決してピアッツァが「売れた」かと言えば、そうはなっていません。この時期には強敵がいたのです。それは「トヨタ・ソアラ」。当時は「オプションは彼女」や「ソアラに乗っていれば、誰でもモテる」と言われ、若者層を中心に圧倒的な人気を誇っていました。では、ピアッツァはソアラのライバルになっていたかと言えば、残念ながらその座も別のクルマが座っていました。そちらは「日産レパード」。それも第2回カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したソアラに大きく水を開けられていた状態です。この原因の一つは、いすゞとトヨタの販売力・営業力という面もありますが、価格が大きく影響してことも否めません。ソアラの2,000cc価格が165万程度だったのですが、この価格で買えるピアッツァは最低グレードのみという状態で価格面でも劣位な状況では、ソアラが大きな壁になってしまうことは否めませんでした。

輸入車のヤナセが扱った「ピアッツァ・ネロ」で販売網を拡充

また販売網の弱さをカバーするため、輸入車専門だった「ヤナセ」とタッグを組みます。いすゞは、1971年からゼネラル・モーターズの傘下に入っていて、ゼネラル・モーターズとしてのいすゞの国内販売網拡大を考え、また、ヤナセは日本におけるゼネラル・モーターズ車両の正規輸入代理店だったことが大きく関係しています。

1981年に発売されたヤナセ専用モデル「ピアッツァ・ネロ(イタリア語で黒)」は、ヤナセにとっては販売ラインナップの強化に繋がり、いすゞにとっては取り扱いディーラーの拡充とWin Winの関係ができたのです。このピアッツァ・ネロは、名前で更にイタリアンテイストを強めて通常のピアッツァと差別化を図っただけではなく、内装・外装ともに黒や黒ベースで統一性をもたせています(後にボディーカラーは赤と白が追加されています)。また1984年にはピアッツァの特徴でもあった異形2灯式ヘッドライトが輸出仕様だった4灯式ヘッドライトに変更されるなど、更に差別化を強める変更が加えられていました。

足まわり強化をドイツのチューナーに依頼! ピアッツァ・イルムシャー登場

いすゞが狙っていた戦略かどうかは分かりませんが、ピアッツァはヨーロッパテイストを強めるグレード追加を繰り返します。一種のカルトカーという状況に入ったと言っていいでしょう。

まず、1984年に2,000ccSOHCターボを追加した翌年の1985年の11月、ドイツでオペルのチューニングを主にしていたイルムシャーにサスペンションなどのチューニングを依頼した「イルムシャーグレード」を発売します。このチューニングによって、足回りがしなやかなになり、またMOMOのステアリングに換装し、シートにはレカロが採用されるという贅沢な仕様になっていて、足まわりは更にイルムシャーシリーズ専用にデザインされたフルホイールカバーが装着されていました。これによって、ヨーロピアンスタイルのデザインにスポーティさが加わります。

この後、1987年に通商産業省(現・経済産業省)からグッドデザイン賞部門別(輸送機器部門)の大賞を受賞します。ジウジアーロのデザインが評価されたことになります。

「ロータス」との提携で、スポーツテイストを強化

そして1988年6月にいすゞは、F1やエスプリなどスポーツ車を得意としていたロータス社と技術提携を行います。この技術提携によって、ピアッツァは「ハンドリングバイロータス」 というグレードが追加されます。この仕様ではイルムシャーと同様に、ステアリングにはMOMOが使われ、ロータスチューンによってチューンアップされたサスペンションを着け、ショックアブソーバーはイギリスのアームストロング製を装備、更にアルミホイールはBBS製の2ピース、そしてレカロに勝るとも劣らないという高い評価を受けた7項目調節機構付のリアルバケットシートが装備されていました。更に、ハンドリングバイロータスでは、国内モデルで初めてリヤサスペンション形式を変更していて、従来の3リンク方式から5リンク方式としています。

そして、初代ピアッツァの締めもロータス仕様となりました。1990年に作られた最終モデルは「ハンドリングバイロータスリミテッド」として限定で発売され、外観上では、「リミテッド」専用のデカールが貼られただけですが、シートは皮革仕上げ、LSD標準装備にと更に豪華な仕様になっていました。

大変身を遂げた「2代目ピアッツァ」登場

さて、19991年、ピアッツァにもフルモデルチェンジの時が来ます。2代目のモデルはプラットフォームを3代目ジェミニと共有するという変更でした。当時、いすゞはゼネラルモーターズのGEOブランド向けに生産した3代目ジェミニの派生車種「ジオ・ストーム」がありました。このジオ・ストームをベースに北米市場でも「いすゞ」ブランドで展開する乗用車として2代目「インパルス」を開発が開発されていて、1990年からアメリカで発売されていました。

インパルスは開発当初からアメリカだけではなく日本での展開も予定されていて、1991年8月から日本国内向けの仕様を施して販売を開始します。それが2代目ピアッツァです。エンジンはジェミニの4XE1型エンジンに対しての80mmのボアは維持したまま、ストロークを11mm延長した4XF1型を搭載しています。この世代のグレード名には、「181XE」や「181XE/S」と「181」を使ったものがありますが、これは4XF1の総排気量約1.81リットル(正確な排気量は1,809cc)に由来するものです。

ジェミニとの共有化が進められたコンポーネント

二代目ピアッツァのデザイナーは、後にカルロス・ゴーンの誘いで日産に移籍し、取締役に就任する中村史郎がピアッツァだけではなくインパルスも担当しています。この2つのクルマに対し中村はインパルスにはスマートさを、ピアッツァには力強さを与え両車の個性を際立たせようとしたそうです。ピアッツァには、フロント・リアにエアダムスポイラーが与えられ、初代のセミリクトラクタブルを髣髴とさせる可動式ヘッドランプカバーが装備されているところが、外観上の違いになっています。

初代ではFRだった駆動方式が3代目ジェミニと同じFFに変更され、サスペンションもジェミニと同じストラット式をベースでリアにはニシボリック・サスペンション(4WSの一種)が装備されました。トランスミッションは5速マニュアルと4速マニュアルの選択、そして、この初代ピアッツァで関係性を深めたロータスが2代目ピアッツァの開発の過程で監修を行っています。そのため、2代目ピアッツァの全てが「ハンドリングバイロータス」となっています。

二代目ピアッツァにも、ネロが用意されヤナセから販売されました。初代では随所にネロとしての特別仕様が見られましたが、2代目ピアッツァ・ネロではグリルに付けられたエンブレムやインテリアの柄、ボディーカラーといった小規模の変更しか加えられませんでした。

まとめ

未来を感じさせる斬新なデザインの初代ピアッツァがインパルスとして輸出された時、アメリカで苦戦を続けていたディーラーにとって救いとなるビッグセールスを成し遂げています。ただ、同時に車体剛性の低さや足まわりの鈍重さが酷評もされていたようです。その挽回としてイルムシャーやロータスによるチューンアップは、必要な処置だったのかもしれません。

ただ、日本とアメリカでは別々の理由でデビューのタイミングが悪すぎたような気がします。日本ではソアラの独壇場になっていた「スペシャリティカー」として勝負しなくてはならず、アメリカで売るにはパワーユニットが弱すぎました。またドアミラーが国内では採用できなかったことでジウジアーロが激怒したといった噂が出るなど、もう少し成熟した状況で打って出れば別の展開があったかもしれません。

また2代目でFF化しデザインも没個性化してしまったことは残念でした。ピアッツァを最後に普通乗用車から手を引いてしまったいすゞですが、もしまた復活することがあれば、ピアッツァの名前で再びロングノーズの個性的なクルマを見せて欲しいと思っています。