悪夢のF1の血統、ホンダ1300!? ダークサイドはどこまでも深く

メカニズム的にはとてもホンダらしい独自の仕組みで知られています。ホンダ1300はホンダ最初の小型乗用車。クーペは特にカッコいいデザインが光っています。しかしこの車にはとてつもない葛藤の歴史が秘められています。

いよいよホンダが小型乗用車に進出、それが1300でした

ホンダはオートバイで力をつけた後、チェーン駆動のオープンスポーツ「ホンダS500」と軽トラックとF1マシンで4輪車に進出しました。市販車が1963年、F1は1964年のことです。創業者本田宗一郎さんのリーダーシップもあってF1で2年目の1965年にはメキシコの高地特有の空気の薄さにセッティングをマッチさせて見事に勝利を収めています。
F1を戦いながら、開発を進めて来た市販車の方では1967年発売の軽自動車の「ホンダN360」が好評を博して自動車メーカーとしての基盤が固まり始めました。

そういう流れのなか、いよいよ小型乗用車を作ろうと世に出たのが「ホンダ1300」です。

当時の1.3リットルの同じ排気量の車はもとより、1.6リットルクラスをもしのいでさらに上のクラス並みの馬力を発生する驚愕の高性能エンジンを搭載しています。遅れて出てきたクーペモデルなどは斬新なスタイルでとてもカッコいいです。
ところがこの1300と開発過程で大きな関係があったF1マシン「RA302」はホンダを大きな暗黒面に引き込んだいわくつきの車です。

栄光の道を突き進むホンダF1

1967年春に発売されたN360まで、ホンダには売る車はS500から積み重ねられてきたスポーツカーS800とトラック、商用バンのL700しかなく、L700はピーキーなエンジンで評判は芳しくないという状況でした。
開発部隊の本田技術研究所もF1にかかりきりでしたが、これでは会社が成り立たないとF1撤退がささやかれ始めます。

F1部隊の方はF1チームマネージャーの中村良夫さんにより、ドライバーとして起用したジョン・サーティースが株をもっていたレーシングコンストラクター、ローラとの協力関係で参戦を継続できるようになり、多くの人員は研究所でのN360 およびTN360という新型軽トラックの開発にさかれるようになります。

こうして市販車でも、F1でも戦う力のある車が揃って1967年を迎えることになるのです。

F1史上に残るデッドヒート、1967年イタリアグランプリで勝利

N360が順調に売れていく中、F1のほうでも2勝目が記録されます。以前の勝利と違いがっぷり四つに組んだ上での勝利でした。
イタリア伝統のモンツァサーキットのグランプリでは予選9位から追い上げたホンダのサーティースが残り9周で2位に上がってきました。トップは自らチームを率いるブラバム、そしてロータスのジム・クラークのみつどもえとなりました。一旦はクラークがトップに立つのですが、残り1周でガス欠。順位を上げていたサーティースがトップに立ったのです。ゴールラインをまたいだときの2位ブラバムとの差は0.2秒。歴史的な接戦をホンダが征したのでした。

勝利への不満、本田宗一郎さんの本音は

この勝利をあまり喜ばなかったのは、まだ4輪車も作っていない時に、F1へのチャレンジを決めた本田宗一郎さん、その人です。
モンツァで勝った車はシーズン中に作り上げた新型車で、ローラのアドバイスを貰っていたどころか、完全な共同制作したものでインディカーで使っていたローラT90とホンダRA273を合体させたものだったのです。

当時のホンダの技術者は図面で指定がないとなにもできない状態でしたが、レーシングエンジニアたちはパーツがあれば配管などは自ら適切に通してしまえたそうですし、パーツ屋はパーツ屋でなにもいわなくてもホンダF1ならこれだろと相談したらすぐ持ってきてくれてしまったり、日本でならいちいち立ち止まってしまう場面がとにかくスムースだったようです。こんなふうに状況に応じた対応力のある本場のレース屋にはまるでかなわなかったそうです。

そんな雲泥の差があったとしても自分たちの手でやり遂げることを求めた本田宗一郎さんは、作ることすら快く思っていないのに勝利まであげてしまったのです。
きっと不甲斐ない思いでいっぱいだったのでしょう。

こうして本田宗一郎さんの関心は、すっかり空冷エンジンへのチャレンジに向かうことになるのです。それも明らかになっていた問題を自力で解決するということに捉われることになります。

ホンダ、ダークサイドへの転落

レース現場の考え

現地で本田宗一郎さんの意向を振り切って、大改革をした中村良夫マネージャーが持った危機感は、この後しばらくの間F1を支配することになるコスワースエンジンの登場によってでした。レースをすることに適したエンジン特性を軽量コンパクトにまとめたコスワースエンジンを使い、これまたそのコンセプトに忠実な車づくりを目指すロータスなどの姿勢に、とにかく大パワーを出して、そのためには重くてもなんでも構わないといったホンダの技術研究所の姿勢はまったく通用しなくなることが明白になってきたのです。

とりあえず大きな決断で状況を乗り切ったホンダレーシングチームは希望に満ちあふれていました。順調に翌年の準備が進めば1968年にはいよいよチャンピオンシップを争える確信を持ったのです。

ホンダをおおう本田宗一郎さんの暗黒面

ところが1968年に向かって、ホンダレーシングに立ちはだかったのは他ならぬホンダそのものでした。軽自動車のN360の成功に続いて、小型乗用車を考えていたホンダではN360に続いて排気量もパワーも大きく、だからこそ排熱も格段に増えるだろうホンダ1300も空冷でいくという決定をしていました。
この技術的な困難を乗り越えるためにホンダF1のエンジンも空冷でやると言い出したのです。

このF1を空冷で戦うという前例にはポルシェがありましたが、空冷エンジンのスペシャリストのポルシェでさえやっと1勝を挙げただけで撤退することになっています。
半ば独立してスポンサー営業まで始めたホンダレーシングへの対抗心なのか、本田宗一郎さんはさらにとんでもないトライをしようとします。

空冷エンジンでさらに冷却ファンを使わないで自然の風の流れだけで冷やすと言い出したのです。
F1どころか世の中にはそんな自動車エンジンは存在しません。エンジンが外にさらされているオートバイならあった形のためいけると思ったのか、いずれにせよ研究所の人たちも仰天したといいます。

ホンダレーシングの中村良夫さんは当然猛反対です。本田さんと中村さんは完全に仲たがいをすることになり、研究所は水冷班と空冷班に分かれることになります。エンジンも2種類作り空冷のシャーシも日本でとなりました。

果てしなき迷走で準備は進まず

こうしてエンジン作りは後に社長となるふたり、久米是志さんと川本信彦さんのチームに分かれます。上司の久米さんが空冷をやることになりました。川本さんのほうは1966年のF2で圧勝したエンジンを作った経験からF1エンジンにも改良を加え、水冷エンジンは順調に開発が進み、空冷F1の車体の方もローラで学んだことを生かして佐野彰一さんがしっかり軽量化された車体を完成させました。

ただ久米さんの担当する空冷エンジンだけはまるで目途も立たなかったのです。この遅れのために水冷エンジンの方も実際の組み立て段階で問題が生じてしまいます。設計図が完成していた水冷エンジンは遅れた空冷エンジンに人を割かれてほったらかしになってしまったのです。

とりあえず両方のエンジンが組みあがった段階で、空冷班のほうに大問題が起こります。結局冷却ファンなしに冷やすアイディアがでない久米さんに本田さんがいったのがエンジンの中に空気を送って冷やすというアイディアです。
それではオイルも飛び散ってなくなってしまうというと本田さんは遠心分離機でオイルを取り出して戻してやれと指示します。久米さんには理解のできないアイディアでしたが、とりあえずそのとおりに作ってみると思った通り機能しません。

本田さんに「設計したやつが、バカだからうまくいかない」といわれた久米さんはさらに奮闘しますが、ついに嫌気がさして出社拒否する事態になったのです。
ホンダを辞めるつもりだった久米さんがとりあえず会社に戻ったのは1ヵ月以上あとのことです。会社に戻るとニコニコ顔の本田さんは早く空冷F1を完成させろといってきました。

万策尽き果てた久米さんは車体設計の佐野さんと相談して、本田さんにはいわずにオイルクーラーをつけることにします。現地でつけてしまおうということです。こうして空冷F1はとりあえず完成した形となってヨーロッパに送られることになりました。

最悪の悲劇を招いた対立劇

ヨーロッパの水冷F1チームのほうは、鈴鹿サーキットでしっかり事前テストするあてが外れて、サーティースなども日本のホテルでなにもすることがなく2ヵ月を無為に過ごしていました。序盤のレースでは充分な戦闘力があったにも関わらず、テスト不足を原因とする耐久性の問題からリタイヤが続いていました。

そこに現れたのが空冷F1です。いきなりの登場に一旦はエントリ―を拒否されたのがフランスグランプリのことですが、なんとホンダのフランスの支配人がジョー・シュレッサーというフランス人を見つけてきて無理やりエントリーを通してしまったのです。

いきなりチームを分断しなくてはならなくなり、中村さんは怒りまくります。
悪いことは重なり、こうして出場したシュレッサーはレース3周目に事故を起こして死亡。2位を走っていた水冷チームは次の周回でトップ車両が巻き上げる事故現場の消化剤を浴び緊急ピットイン。大きく後れを取りますがなんと最終的には2位に入ったのです。つまり優勝が望めたレースでした。

その優勝できたはずのレースは、ついに死亡者をだすという最悪の悲劇となったのです。

本田宗一郎さんの引退の真相はここ?

ホンダ1300の空冷エンジンはF1エンジンのフィードバック

この事態に至っても本田さんは空冷エンジンをあきらめようとしません。中村さんに散々嫌味を言われた久米さんもさすがに本田さんを説得しようとしますが、まるでいうことを聞きません。大喧嘩になった末に、ついに久米さんは完全に嫌気がさしてまたもや会社に行かなくなり四国への旅に出発します。研究所所長に説得されて会社に戻った久米さんはホンダ1300の開発に加わります。こうしてホンダ1300のエンジンはまさしくF1の悲劇をフィードバックすることになるのです。

ついに空冷エンジンのホンダ1300が発売

こうして完成したホンダ1300ですが性能は驚くべきレベル。世界的にみても例を見ないクラス最強の100馬力を掲げて登場しました。ホンダがセールス資料として当時配布したものによると最も近いのは1.6リットルのブルーバードで92馬力、値段は20万円(当時の価格です)ほど高く2リッターの車がやっと対抗できるレベルでした。

ただし、これはエンジンのみの話です。やはりこのレベルの出力に空冷エンジンでは無理があってDDAC(デュオ・ダイナ・エア・クーリングシステム=一体式二重空冷)として登場しましたが、エンジンをアルミジャケットで覆ってその隙間の空気をシロッコファンで強制換気するという仕組みになっています。
2重というのはさらに走行によって流入する空気でも冷やされるという意味のようですが、複雑怪奇でよく意味の分からない方法は効果は別として重くてコストがかかってしまっています。

そもそも空冷エンジンの長所というのは水冷のように余計な補機がいらないので無駄なく、軽量化できることです。そしてそれこそが本田宗一郎さんが主張していた空冷のメリットなのです。

エンジンはアルミ製ですし車体側にも178件の特許、実用新案を投入したといわれていますが、確かにそれでいて流通を工夫して安く収めていますが、当時最新の技術を導入したにも関わらず、重たくなったエンジンがまだ未成熟だったFF(フロントエンジン、フロントドライブ)の悪癖をことごとく露呈するというありさまになっていました。

こうしてホンダ1300は次の世代のホンダ車になにも引き継がれることなく、空冷エンジンもさすがに幕を閉じます。
販売されていたのは1969年から1972年までの3年間、どうしても車の完成度は上がらず短命となりますが、セダンの発売から1年後に販売開始となったクーペの美しさなど志は高い車です。

皮肉なことにアルミを多用したエンジンが当時は廃品回収の価値があるとして積極的に潰されてしまい現車が少ないレアな旧車でもあります。

本田宗一郎さんの引退でホンダは次のステップへ

伝説の経営者でホンダにはなくてはならかなった創業者だったことも確かですが、本田宗一郎さんはパートナーの藤沢武夫さんとともに生産終了翌年の1973年に一線を退くことになります。
見事な引き際と話題なった引退ですが、このときのエピソードとして伝わる話は、この空冷論争ではありません。
ですが、実際には引導を渡したのはこちらの問題だった可能性を大きく感じます。

ホンダの歴史に強烈に足跡を残した1300

ホンダは独自のやりかたにとことんこだわって名声を得て来た企業でもあります。本田宗一郎さんというカリスマがリードしてきた価値観でもあります。そしてそれは正しかった面があるとはいえ極限への挑戦を通じて改められることになった面もあります。

そのターニングポイントを示すのがホンダ1300という車です。メカニズム的にはみるべきものが多いとはいえ最初のスポーツカーSシリーズのような輝きはもはやありません。

こうして本田宗一郎さんはレジェンドとなり、ホンダはCVCCとともに世界的な大企業に成長していきます。