【いすゞ】チャレンジ精神の塊「ベレル」の悲しい歴史

いすゞが最初に自主開発した乗用車、ベレル。6人乗り車両としてタクシーでの導入を意識して作られ、鳴り物入りでデビューしたクルマですが、中々レトロカーとしても見かける機会の少ないレア車両です。そこにはいすゞのチャレンジ精神が影響していたようです。今回、そんなベレルに迫ってみたいと思います。

イギリス車のノックダウン生産からはじまった「いすゞ」乗用車の歴史

いすゞが乗用車製造に乗り出したのは、1953年。それはイギリスのルーツが作っていた「ヒルマン・ミンクス」のノックダウン生産にはじまります。ヒルマン・ミンクスは専売公社(現JT)のピースや蒸気機関車、飛行機と「口紅から機関車まで」と言われた以上に多彩なデザインを手がけたレイモンド・ローウィによる美しい車体が特徴でした。

いすゞが生産した「いすゞ・ヒルマン・ミンクス」も、日本でのまだ少なかったオーナードライバーから高く評価され、今回の主役「ベレル」や小型車種ですが「ベレット」が登場した後の1964年まで生産が続けられたヒット商品になります。また、デザイン以外にも、いすゞの生産品質も良かったことも影響しているのかもしれません。というのは、1958年4月に訪日したイギリスの自動車評論家ロナルド・バーカーは、「いすゞヒルマン・ミンクス」を実際にみたところでイギリス製ヒルマン・ミンクスよりも細部の仕上げやたてつけが良いようだとコメントを残しているのです。品質、デザイン、売上と乗用車生産を始めたいすゞ自身にとっても大きな収穫のあった車両でしょう。

ヒルマン・ミンクスの後継車!として登場したベレル

ヒルマン・ミンクスの成功を基礎に、いすゞは乗用車の自主開発に乗り出します。これにはヒルマン・ミンクスの生産で勝ち得た自身と、同時にルーツ社とのヒルマン・ミンクスに対する提携期限が迫っていたという事情もあります。設計目標は6人乗りを絶対条件として、タクシー業界への売り込みを念頭に置いたものでした。

1961年10月16日に計画を発表すると、その年の全日本自動車ショウに参考車両としてですが出品されます。そこからは、「ヒルマンの長所を生かしながら、独自設計を加味」することとされ、自家用向け車両としてはヒルマン・ミンクスよりも大きく、トヨタならばクラウン、日産ならセドリックに相当する中型車となりました。

クラウンには少量生産されたものの量産としては日本初となるディーゼルエンジンPAD10型を搭載し、1962年4月に「いすゞ・ベレル」として発売開始されます。ベレルの名はいすゞ(五十鈴)の「鈴」と大きさを表す「L」を合成した造語で、ヒルマン・ミンクスよりも大きく、かついすゞにとってはフラッグシップモデルとなることを願った名前のようです。しかし、その願いは通じず売上は決して芳しいものではありませんでした。

チャレンジ精神も通じず…

この売上不振の原因は、いすゞの旺盛なチャレンジ精神にあったのではないかと思います。というのは、ベレルの設計は、ヒルマン・ミンクスの長所を活かすとは言え、いすゞにとっては初経験となるものでした。社格を上げ、しかもディーゼルエンジンを搭載することは大きなチャレンジです。そして、ベレルのためにと言っても良い新工場を藤沢に作ります。これが二つ目のチャレンジです。最初のチャレンジによって設計上の不備と思われる初期トラブルを招き、また新工場(いすゞ藤沢工場)では、製造担当者が熟練していなかった上に、新しい生産機械や設備を取り扱ったことで組み立てた部品の精度が非常に低くなってしまったのです。このため工場ラインを立ち上げた1962年1月の生産台数は「0」。完成車を1台もつくり上げることができなかったという悲惨な状況でした。

その状況を挽回するため、いすゞは急遽、一部の組み立てを外注発注します。すると今度は、ボディパネルから雨漏り・Aピラーには亀裂が発生するという信じられないトラブルが頻発します。そして、最終段階の塗装をラッカーからエナメル塗料に変更し簡略化しようとしたのですが、塗装したところに泡が出てしまいます。更に、スピートメーター、そしてダッシュボードのクラッシュパッドにも不具合が見つかり、ついにはエンジンマウントにも不良箇所が出てしまいます。こうした相次ぐトラブルによって、本来なら全国一斉発売したかったところが、東京・名古屋・大阪の三大都市圏での限定先行販売の形になってしまいました。しかし、その三大都市圏限定とは言っても、いすゞは後発自動車メーカーです。販売力の面でも苦労が予想されていた3つ目のチャレンジの壁に突き当たることになります。

期待のタクシー市場では、盛況!な時もありました

こうした逆境からヒルマン・ミンクスで作った自家用車としての売上は惨憺たる有り様でしたが、設計の念頭にあったタクシー業界からの需要はどうだったのでしょう。

先ほど書いた初期トラブルが1963年1月に落ち着き始めると、ディーゼルエンジンが持つ特性、つまり経済性がタクシー業界から評価を受け始めます。そのため、開発の狙いだったタクシー車両として急速に売上を伸ばしはじめます。そして1963年ごろからタクシー車両としてシェアは20%を越え始め、ベレルの売上のほとんどがタクシー用、しかもディーゼルエンジン搭載車両になっていったのです。

もっともトラック用ディーゼルエンジンの転用という出自から、振動や騒音の激しさは乗用車として到底無視できない水準で、現場のタクシー運転手たちからは「乗務したくない」と悪評を買い、タクシー会社ではやむなく「ベレル乗務手当」を出した例すらあったという。
折しもこの頃タクシー業界ではLPG自動車が急速に普及、ガソリンエンジン車との性能格差が小さく騒音振動面は同程度で済むLPガス仕様のクラウンやセドリックが出回るようになると、ディーゼルベレルの乗り心地の悪さが際立ってしまい、タクシー車としての需要も1965年以降は激減。その後のいすゞ車は(5ナンバーフルサイズ車のラインナップを失ったこともあって)タクシー需要の面でも販路を狭めることになってしまった。

パワフルなエルフ(トラック)用エンジンがアダに

乗用車では、つまづいたもののタクシーで失地挽回ができたように見えたベレルですが、そこにも落とし穴が待ち受けていました。1963年には日本機械学会賞を受賞している名機であり、量産乗用車としては国内初の試みだった「ディーゼルエンジン」が思わぬ不評を買ったのです。

ベレルに搭載されたPAD10型ディーゼルは、もともとトラック(エルフ)用に開発され使われていたエンジンです。そのため、パワー重視の設計になっていたため乗用車に求められる要素、静粛性や低振動という特性に弱点がありました。このため、タクシーというドライバー以外に乗客を乗せなければならない利用には厳しいものがあったのです。当然、タクシードライバーからはタクシー会社にクレームが上がります。中には、その声を無視できず「ベレル乗務手当」を支払っていたところもあったのです。

そのように利用の現場から突き放され始めたベレルにとって、更に逆風が襲いかかります。それは「LPGエンジン」の登場です。このエンジンはガソリンエンジンと変わらない性能、そして振動・騒音レベルでベレルのPAD10型ディーゼルエンジンよりも格段に乗用車向きの特性がありました。このため、タクシー業界ではライバルのセドリックやクラウンに採用されはじめるとベレルの売上は再び下降線をたどることになったのです。

挽回を期してモデルチェンジへ

そんなベレルは、1965年10月にモデルチェンジを行います。それまで「鈍重」「アンバランス」「時代遅れ」と言われた車体の特徴だった三角形のリアライトを長方形に変更するなど、細かな変更を行うことで批判されていた箇所に対応しようとします。

しかし、その改造は「没個性」という新たな批判を産んでしまうのです。しかも、当時のライバル車が採用はじめた装備、SOHC直列6気筒エンジン・自動変速機・パワーウィンドウなどはベレルにはなく「さらに気高く、さらに豪華に」というキャッチコピーが虚しくさえある状態でした。しかも、この年、セドリックはピニンファリーナデザインの車体を使ってフルモデルチェンジを行います。ライバル車との比較をされれば明らかに不利な状況に陥ってしまいました。

ミスター合理化「土光敏夫の公用車」の悲しい理由

この状況から、いすゞはベレルの在庫を抱えることになります。売れる予定のある在庫であれば良いのですが、既にタクシー会社からも使われず、自家用車として使うにはスタイルも装備も見劣りのするベレルに売れる当てなどなく、「3台で100万円」という在庫一掃、たたき売りが行われているという風聞がまことしやかに飛び交うようになってしまったのです。しかも、この大幅値引きは単なる噂では留まっていなかったようで、当時、経営難に陥っていた東芝を再建すべく社長に就任した土光敏夫が、ベレルを社用車として採用し自らが乗ることで経費節減のモデルになっていたのです。

ライバルに対しての優位性が(値引きによる)価格だけという状況だったのです。この状況で、いすゞは1967年、フローリアンを発売、この後継車の登場によりベレルはわずか37,206台が生産されただけで、舞台から降りることとなりました。

まとめ

チャレンジを成功に結びつけることは、とても困難なことです。最初に手がけた乗用車ヒルマン・ミンクスの成功から、勢いづいた面はあったのでしょうが、ディーゼルエンジンを搭載し、6人乗り車両にするというタクシー業界などの特性を理解して開発したベレルは、不幸にも成功と呼べるような結果を残すことはできませんでした。

しかし、1962に追加した2,000ccガソリンエンジン車「スペシャルデラックス」は、国産乗用車としては初のツインキャブエンジン(95馬力)を搭載など、評価すべき点がたくさんあるのです。そして、いすゞのフラッグシップモデルとなった117クーペにはベレルの後継車両「フローリアン」と同じプラットフォームを搭載し、このベレルで得た教訓は後の名車に活かされていたのではないでしょうか。いすゞベレルは、その後のいすゞ車の歴史の流れの中で語るべき名車なのかもしれませんね。