占領下のフランスで極秘設計された国民車「ルノー4CV」。

第二次大戦が終わった直後に発売されたルノー4CV。戦時中はドイツ占領下にあったため、極秘開発されたクルマです。そのためか、様々なドラマを生みながら後には百万台の生産を記録するベストセラーでありロングセラー車種となりました。今回は、そのドラマを紹介していきたいと思います。

戦時下のフランスでの自動車開発

1940年、ヒトラー率いるドイツによってフランスは占領されます。占領下のフランスでは、乗用車の開発は厳しく制限されていた中で、4CVはルノーの技術者によって開発をはじめられました。この設計チームは当時のルノー研究部門のNo.2、フェルナン・ピカールによって率いられ、物資欠乏の中でも使える小さな車体を目指して研究・テストが重ねられます。そして、未だ占領下にあった1942年、最初の試作車両が完成します。

この開発にフォルクスワーゲンの設計者、フェルディナント・ポルシェ博士が、ドイツの敗戦後にフランスに交流されている時に設計させられたとも言われていますが、実際には軟禁されていたポルシェ博士にルノーの設計チームがアドバイスを求めにいって、これに対してポルシェ博士から幾つかのアドバイスが行われたというのが通説になっています。その中には、サスペンションに対する改良が含まれています。

創業者ルイの逮捕、そして死

こうした中、ルノーに激震が襲いかかります。そして、1944年、創業者ルイ・ルノーが死去してしまうのです。ドイツによる占領中、ルノー社はドイツに接収されていました。この間、ドイツから送り込まれた人材が経営などの主要ポジションを占める一方、現場でのサボタージュなどで非常に低い生産性に陥ります。しかし、ルイ・ルノーはレジスタンス達の嫉妬の対象となっていました。しかし、1942年3月にルノーの工場は連合国側の空襲によって破壊されます。この時のショックからルイ・ルノーは失語症に罹り、読み書きの会話も全くできなくなったのです。そして1944年のフランスが解放で、ルイ・ルノーには更なる不幸が襲いかかります。まともに会社は生産すらマトモにせず、工場も破壊され、そして自身も失語症に罹りながら「ドイツへの利敵協力者」として逮捕されるのです。そして、間もなく死亡。死因はハッキリとしませんが、遺体には虐待の後があったと言われています。

フランス開放、そしてルノーの国有化の中で4CV生産スタート

その不幸の中で、シャルル・ド・ゴールの行政命令で1945年2月に「ルノー公団」として戦後の再出発を切ります。そしてルノーの主導権はレジスタンスのメンバー、ピエール・ルフォショー握られます。ルフォショーはルノー公団総裁に就任早々、大きな決断を迫られます。この時、ルノーは国産車開発について中型セダンの開発と4CVの開発を進める2つのプランを考えていました。しかし、両方を同時に進めるだけの体力はなく、優先順位の高いものを選択する必要に迫られます。その時、4CVについて、「斬新過ぎる」、「小さすぎる」とルノー社内では非常にネガティブな評価だと考えられていたそうです。しかし、流布ぉショーは、戦後の物不足や燃料の供給不足等から4CVの開発にGOサインを出すのです。「物資欠乏の中でも使える小さな車体」を目指したフェルナン・ピカール達の努力が認められたのです。

ちなみに、選択に漏れた中型セダンは「フレガート」として1950年に登場しています。

フランス初のミリオン車両。名実ともに「国民車」へ

4CVが実際に公開されたのは、1946年のパリサロンでした。ドイツ陸軍がアフリカ戦線で使ったのと同じサンドイエローに塗られ、そして独特のフォルムから「La motte de beurre(バターのかたまり)」と呼ばれた4CVですが、まだ、大戦の影響も強く、発売された当初の売上は決して良いものではありませんでした。しかし、設計チームの思いの通り、その中でも徐々に売上を伸ばしていきます。

最終的に、ルノー4CVは1961年まで生産を続けられます。しかも後継車「ドーフィン」が1956年に発売されたのにも関わらず、ドーフィンに設定された価格が4CVに比べて高かったこともあり、4CVの人気は衰えず、ルノーの廉価版車両としてのポジションで5年も作り続けられていたのです。この結果、総生産台数は100万台を越え、フランス車として初のミリオンセラー車両となりました。

【基本情報】
車種名:ルノー4CV
販売期間:1946年〜1961年
ボディタイプ:4ドア セダン
エンジン:750cc水冷直列4気筒
変速機:3速マニュアル
全長:3,663mm
全幅:1,430mm
車両重量:600kg
生産台数:1,105,547台

日本でも生産され、タクシーになった4CV

また、ルノー4CVは日本にも大きな影響を与えました。今ではトヨタ系のトラックなど大型車両の専業メーカー担っている日野自動車が、1953年にルノーと提携しノックダウン生産に入るのです。当時はまだ、「自家用車」を持つという段階に無かった日本では、主にタクシー業界に受け入れられ、「亀の子ルノー」と親しみを込めて呼ばれていました。この日野ルノーは、初期こそノックダウン生産でしたが、徐々に国産化を進め、また、このルノーは日野自動車で国産化され、また日本国内向けの変更が加えられていったそうです。例えば、ドアには内張りがつき、またタクシーとしての高級感を狙ったのかクロームメッキなどの装飾が追加されました。

シャーシ設計の優秀さが生きた!レースシーンでも活躍した4CV

ナチスドイツの占領下で開発された4CVのシャーシは非常に優れたものがありました。そのため、操縦性が高く、またいろいろな改造にも耐えられるものでした。その特性を活かして、レースにも登場しています。しかも単なる出場にとどまらず、1940年代〜1950年代のル・マン24時間レースや、ミッレミリアの750ccクラスでは数度の優勝を勝ち取っています。また、後にA110でWRCの初代チャンピオンになったアルピーヌの初期車両A106のベース車両としても使用されました。

まとめ

戦時下、しかも占領下のフランスで次の世代の自動車開発を行っていたフェルナン・ピカールたちの努力と苦労は想像を絶するものだったと思います。また、その思いを理解し発売に踏み切ったピエール・ルフォショーの先見の明にも驚くしかありません。彼らに共通した将来を想像する力は、更にA106や日野ルノーのようにレースや国際的な分野にも影響を与えたのです。

こうしたコツコツとした努力が将来に花開くという良い例が、4CVの小さなボディーに詰め込まれています!