国民車「トヨタ・パブリカ」。トヨタの強さを作った開発・販売での苦戦

スバル360に代表される黎明期の大衆車。自動車界の大巨人トヨタはスバルに遅れながらも、低価格、高い走行性能で対抗すべく「トヨタ・バブリカ」を送り出します。しかし、発売当初から大きな苦戦を強いられます。今回、その原因は何だったのか、そして何故トヨタがスバルに遅れを取ってしまったのかを調べてみました。

国民車構想とトヨタ

トヨタは1955年1月、トヨペット・クラウンを発売します。その後、トヨタ・クラウンと呼ばれる初代クラウンは、アメリカ車の影響を受けながらも、乗用車専用のシャーシ、先に販売されていたトヨペット・スーパーにも使われた4気筒OHV R型エンジンを搭載し、純国産の高級車としての登場でした。このクラウンの登場は日本の自動車業界にとって大きな衝撃となったようで、続く5月に当時の通産省から「国民車構想」が新聞報道で明らかになります。国民車構想、つまり庶民にとっては高嶺の花という乗用車を手の届くものにしよう、そして一定の基準を満たす自動車を募集し、試作車を試験したうえで、量産が可能な1車種について国からの財政支援で育成しようというものでした。

しかし、国民車の基準は非常に厳しいものです。
■ 最高時速100km以上
■ 定員4人(但し2名は子どもでも可)
■ エンジン排気量350~500cc
■ 100万キロを走った後も、大きな修理を必要としない
■ 月産3,000台の生産が可能なよう出来るだけシンプルな構造とする
■ 燃費30km/リットル以上(時速60kmで巡航時)
■ 販売価格25万円以下

初代のクラウンの価格が965,000円だったと言いますから、価格面では約1/4で実現しなくてはならず、舗装も充分では無かった時代に、燃費をはじめとした性能を問われ、かつ量産指向のシンプルな構造を両立するというのは至難の技です。

トヨタは、この構想が周知になる前、1954年5月にトヨタ自工の技術担当専務、豊田英二から排気量500~600ccのFF式で大衆車を開発するよう指示が出されていました。このサイズは、当時のタクシーで主流だった1,000ccよりも小さく、大衆車と呼べるコンセプトのクルマでした。自動車文化としては、先を進んでいたヨーロッパでは、このサイズのクルマが多く生産され始めていて、トヨタだけではなく、日本のメーカーにとっては市場を拡大するためにも非常に興味深いサイズだったのです。

ただ、国民車構想が報道されたことはトヨタにとって決して朗報ではありませんでした。まず、業界団体である自動車工業会の理事会で「25万円程度の自動車開発は不可能」という結論が出されてしまいます。技術的なハードルも高度だが、それ以上にどのメーカーが見積もっても25万円の車両価格は達成不可能、実際には40万円を超えると判断されたのです。

トヨタ自販が関与してコマツの国民車参入。矛盾した国民車構想対応

自動車工業会の決定は、トヨタも含んでの結論でしたから納得ずくだったのでしょうが、同じ1955年12月に小松製作所が国民車構想に沿った形での小型車開発の準備をしていることを発表したのです。現在では、「はたらくクルマ」として特にキャタピラを装着したブルドーザーなどの印象が強い小松製作所ですが、1953年にはダンプトラックの生産を開始しており、その勢いから乗用車開発に乗り出そうとしていたのです。しかも、単なる構想だけではなく、知見の不足する乗用車設計は西ドイツのポルシェに依頼し、予定する車両価格は30万円とする、かなり具体的な計画だったそうです。ところが、この計画にはトヨタ自販の社長が関与していたのです。自動車工業会では反対しながら、小松製作所の国民車には関与しているという矛盾が生まれていたのです。

1956年8月、自工の試作車第1号が完成します。自販の動きからトヨタとしての国民車構想への対応には様々な揣摩臆測が生まれていたことから、この試作車を報道機関だけではなく、タクシー業界からも人を招いて公開するという異例の対応を行っています。なぜ、タクシー業界にまで公開したのかは、小松製作所の件とは少し違う事情がありました。実は、トヨタが作ろうとしている小型車が料金体系に影響を与えるのでは無いかと懸念されていたのです。超小型車がタクシーに参入し、多く使われるようになると料金の引き下げを求められるのではないかと考え、小型車開発に横槍まで入れてくる状態だったようです。そこで開発を進めたいトヨタとしては、タクシー用の車種としては小さすぎ、また乗用車風ではない2ボックス風のスタイルの1Aを見せることで、オーナードライバーが運転するためのクルマとして認識してもらうよう公開したのだそうです。

1Aの試作失敗。先行するライバルに対抗するため開発チームを変更

1A試作車は、FF車として期待された性能を実現することはできませんでした。豊田英二専務の構想は、シトロエンの2CVがあったそうです。そのレベルに達するためには、当時の日本での自動車開発能力では不足があったのです。特に前輪駆動の駆動系の弱さやトラクションの不足は決定的で、開発は中々進みません。そこで心機一転だったのでしょうか、開発番号を「11A」と変更したうえで、FF車の試作を継続し、1958年7月に11Aの試作車を完成させます。しかし、結局1Aで露呈した問題点は解決できずに失敗に終わってしまうのです。実は、この年、トヨタに先駆けて国民車レベルの国産乗用車が完成しています。それはトヨタよりも自動車業界では遥かに後発企業だった富士重工のスバル360です。クラウンで自動車市場を切り拓いたはずのトヨタがスバルの後塵を拝することになってしまったのです。

このスバルの成功に刺激を受けたトヨタは1959年2月、開発主査にトヨエースの開発に携わった長谷川龍雄を招き入れます。そして長谷川たちは、5月にFFでの実現をあきらめ、オープン・プロペラシャフトを使ったホチキスドライブ型の後輪駆動(FR)方式という「枯れた」レイアウトを採用します。これは、長谷川自身にも、そしてトヨタにも経験のないFF開発の続行は困難だとするトヨタのサラブレッド専務の指示に反する苦渋の決断でした。ただ、ここまでFFにこだわった理由は軽量化にもありました。長谷川たちは、FR化による重量増を他の部分の軽量化で補うこととしています。

専務の指示を守るのか、それとも実現できるプランを採用するのか

もう一つ、長谷川が豊田英二と戦う必要がある局面がありました。当時、500cc車両に対して税制上の優遇処置が設けられるという未確認の触れ込みがあったのです。これは当初の豊田英二の構想にあった「500cc〜600ccエンジン」という範囲の下限値です。そのため豊田英二は当初案の通り、500cc~600ccでの実現を主張します。しかし、長谷川は違う判断をします。当時、既に高速道路の建設が始まっていて、自動車には高速走行が求められる。そのためには500ccエンジンでは非力なのは明らか。100km/hの走行を前提として一回り大きい700ccエンジンを搭載するというものです。この判断は勇気のいるものだったと思いますが、結果として触れ込みのような税制優遇は行われずに終わったので、長谷川の判断は間違っていなかったことになります。

さて、ここまでのハードルを乗り越えた長谷川は、開発を推し進めます。この時、長谷川にはFR化に伴う車重の軽減策を考えなければならないという重圧と、そして安価な国民車作りということで製造原価にも配慮したコスト管理を徹底します。ちなみにこの製造原価を考慮した開発手法は、このときにはじめて取り組まれ、今もトヨタが車両開発する際の伝統となっています。

こうして大方針転換をした旧1Aは「68A」と名前を変え、試作車の製作を急ぎ、翌年1960年4月に第1号車完成させます。この時、車両型式を「UP10型」とし、1Aから使われていたエンジン「4E」は「U型」へと名前を変え、1960年10月に全日本自動車ショーに大衆車として出展することができました。

この時、まだ車名は決まっていませんでしたが車名を公募し、その結果、1961年6月に「パブリカ」の名称で発売した。

試作車、そして初期モデルの仕様とは

この試作車は、2ドア3ボックスの4窓セダン型ボディで全長3,500 mmの簡素な軽量フル・モノコック構造のボディを採用しました。このボディには、プレス部材を使い生産性を向上させる意図があったのですが、やや華奢な印象を与えるとの評価を受けたそうです。そしてホイールベースは2,130mm、大人4人が乗車可能な最低限のスペースは確保されていましたし、ライバルの軽自動車よりはゆとりもありましたし、トランクルームとして独立した貨物用スペースを取ったことは更に長所として評価されるものでした。

また、U型エンジンはフロントアクスルにオーバーハングさせながら、プロペラシャフト位置を極力低くすることで、FRに必要なドライブシャフトによってもたらされる居住性の悪化を改善していました。こうした居住性の向上を図りつつ、パブリカの車体重量は当初目標だった580kgに抑えることに成功しています。

U型エンジンは697ccの空冷水平対向2気筒OHV、高出力28PS /4,300 rpm、最大トルク5.4 kgm/2,800 rpm を発生し、580kgの軽量軽量ボディは最高時速110kmを記録しています。ちなみにU型エンジンの空冷方式は、トヨタ唯一の水平対向2気筒で豊田英二がモデルと考えていたシトロエン2CVと同じ遠心式シロッコファンにシュラウドを組み合わせた強制冷却を採用しています。

パブリカ、苦難の末の市場投入。そして更なる苦難に

こうして発表されたパブリカは、その年の3月に完成した専用ラインで4月から生産が開始され、販売価格は38,900円、国民車構想は上回りましたが先行するスバル360を下回る価格でした。

そして、既に販売網も確立していたこともあり、発売から間もなく月間販売台数が2,000台を達成します。更に、パブリカ専用に第2組立工場を建設し、これは翌年1962年5月に完成したことで本格的な大量生産体制が完成します。このこともあり、1963年末には月間販売台数3,000台を突破、更に上が狙える状況かと思われました。

しかし、そこから売上が伸びません。その大きな理由は「デラックス化」です。1962年、マツダが仕掛けた大衆車キャロル360は、先行するスバル360に対して装備の充実で対抗しようとしました。しかし、その一方で車体が重かった上に、スバル360も装備を充実させて追撃を交わしていたのです。しかし、パブリカは価格面や走行性能ではスバル360に勝利していたものの、メッキのパーツがほとんどない質素な外装に、ラジオ、ヒーター(効きは弱かったものの、徹底した軽量化・コストダウンを図った初期のスバル360にすらつけられていました)もなく、燃料計やサイドミラーもつけていなかったのです。つまり、パブリカが発表される前に起きていたデラックス化の波に完全に乗り遅れていたのです。

派生モデルの追加による大胆なテコ入れ

この状況を打破するため、トヨタはパブリカにテコ入れを行います。1962年にはライトバンタイプを作り、また「トヨグライド式」のセミオートマチック仕様車もラインナップに追加したのです。ライトバンは当時の主流とも言える商用車部門への参入で販売強化を狙ったものですし、トヨグライド仕様はドライブを簡単に愉しみたいというドライバーへの訴求力と、競合するスバル360などを始めとした軽自動車陣営との差別化をアピールするものでした。

更にこの年、全日本自動車ショーで「ヨタハチ」トヨタスポーツ800の原型となる「パブリカスポーツ」を参考出品し、その後、改良を加えた上で販売に踏み切られます。

こうした矢継ぎ早のテコ入れの上で、パブリカ自身の改良として1963年、リクライニングシート・ラジオ・ヒーターなどの快適さをもたらす装備に、外装にもクロームメッキ・モールを使った「デラックス」仕様を発表します。この追加によって、ようやくパブリカの販売が上向きになり、更に同じ1963年、コンバーチブルモデルもを追加発売したことで、月間販売台数も当初予定の3,000台〜4,000台へと乗せることができました。

フルモデルチェンジのようなマイナーチェンジ実施、そして2代目へ

1966年に、トヨタ・パブリカにとって最初の大規模マイナーチェンジが施されます。エンジン排気量は700ccから800ccに拡大した2U-C型に置き換えられ、これに伴って出力は36psに出力が増しています。またフロントノーズやリアデッキを大胆に変更するなど、ほぼフルモデルチェンジといえる改良でした。なお、コンバーチブルモデルにはスポーツ800と同一2U型エンジン(ツインキャブ45ps)が搭載されています。

型式「UP20」とされたマイナーチェンジモデルは、段階的に車体価格が引き下げられ、1967年に35.9万円、当時の円ドルレートが360円/ドルだったことから「1,000ドルカー」というキャッチコピーでアピールしています。この後、1967年に、さらに派生車種を追加しキャブオーバー型商用車「ミニエース」をトヨタのラインナップに加えた後、1969年に2代目へと継承されていきました。

失敗からの教訓、改善

■ コスト至上主義により、乗り手が期待するデラックス化、夢のあるクルマというニーズへの不足
パブリカが発売された時点で、デラックス化という「ニーズを把握しきれなかったこと」が当初の苦戦の大きな理由でした。このことは、パブリカに続く更に大きな大衆車を開発しようとしていた長谷川を始めとしたトヨタ自工の開発車たちだけではなく、新型車で売上を伸ばそうと考えていた自販にとっても大きな教訓を残しています。その一つの結論が、1966年発売の初代カローラです。カローラは開発、そして販売の両面で「デラックス化」という要素を他のライバルに対しての差別化に使っています。ちなみに、初代カローラの主査も長谷川龍雄が担当しています。

■ アウタードアハンドルによる事故の発生
当時、多くの自動車のドアにはレバー形のドアハンドルが飛び出す形で前を向いて取り付けられていました。ドライバーなど乗員にとっては、ボタンを押し込む方式によりも楽にドアを開くことができるので多様されていて、当たり前のようにパブリカも同じ方式を採用していました。しかし、1964年、都内で女子小学生にパブリカが接触した際、このドアハンドルが小学生の胸に突き刺さってしまい不幸にも亡くなってしまう事故が発生します。大きく報道したことも作用したのでしょが、事故後2日目、トヨタは全車種でドアハンドルを廃止し、より安全な形状に変更することを発表しています。また、これが契機となって他社でも、この 。以後、他のメーカーも追従し、このようなハンドル形状は採用されなくなりました。

【基本情報】
車種名:パブリカ(初代)
販売期間:1961年6月〜1969年4月
乗車定員:4人
ボディタイプ:2ドアセダン、2ドアオープン、2ドアバン、2ドアピックアップ
エンジン:0.7・0.8リットル空冷水平対向2気筒OHV
変速機:2速AT、4速MT
駆動方式:FR
サスペンション:フロント ウィッシュボーン/トーションバー、リア 横置きリーフスプリング
全長:3,580mm
全幅:1,415mm
全高:1,380mm
ホイールベース:2,130mm
車両重量:600kg
ブレーキ:フロント ドラム、リア ドラム

まとめ

パブリカは、その後もモデルチェンジを続けながら、1988年、つまりバブル前夜まで製造が続けられました。国民車構想に端を発して、産みの苦しみと育ての苦しみを経ながら作られ続けた「大衆車パブリカ」の必要性はバブルの到来とともに終了したと言えるのでしょう。

ただ、開発時点からの製造コストへの意識や、新型車開発におけるニーズの把握、また不具合による早期の安全対応など、初代パブリカが主査の長谷川やトヨタに与えた教訓は非常に大きなものだったはず。そのことでカローラをはじめとした大衆車に対しても、乗り手に楽しさを与える「FAN TO DRIVE」なクルマ作りに活かされているのではないでしょうか。でも、長谷川龍男が上司に従順な人物だった…きっとパブリカの主査には指名されていなかったかもしれませんね。