【マツダ ロードペーサー】マツダ初のプレステージカー

1970年代前半、国産最高級車はトヨタ センチュリーと日産プレジデントの二大勢力が占めていました。しかし、この牙城を崩すべくマツダがチャレンジし世に送り出したクルマが「マツダ・ロードペーサー」です。今日は、このクルマが開発された経緯や技術陣の努力などをお伝えしたいと思います。

1960年代に日産、トヨタによって始まった国産超高級車開発

国産メーカーによる超高級車の市場は1965年の日産プレジデントによって開かれます。既にセドリック、セドリック・スペシャルサイズと大型乗用車の開発実績を積んでいた日産にとって、超高級車はそれまでの技術を拡大していく方向だったと思います。同様に2年後の1967年、センチュリーを発表したトヨタも既にクラウンが市販され、その車体を活かし2,600ccエンジンに大きくした経験があります。このことで高級化を狙ったクラウン・エイトと順調に高級路線を拡大した上での発表でした。

後続メーカーにとっての超高級車市場へのチャレンジ

一方、今日の主役マツダは、1966年にルーチェを発売し、1967年にはコスモスポーツを発表します。しかし、日産やトヨタほどに高級車に対するノウハウの蓄積ができていない状況でした。しかし、当時の日本は高度成長期。超高級車市場が日本に確立する可能性が高まった時期にもあたり、マツダだけではなく三菱、いすゞにも超高級車開発の機運が高まります。

三菱やいすゞにとっても「超高級車」は未知の領域でした。全くの白紙のような状態で超高級車を開発するだけの資金力はありません。そのため、この2社は以前からの外国メーカーとの提携を活用して自社のラインナップに超高級車を加える作戦に出ます。それは、外国にすでにある乗用車の車体に日本の規制に適合するような改造を施す(例えばドアミラーをフェンダーに変更)というものです。実際、使われた車体は日本と同じ右ハンドルのオーストラリア車、実質はOEMと言っても良い状況だったと思います。

GM系オーストラリアメーカーとの提携により局面を打破

しかし、マツダには両社のような強力な提携先を持っていませんでした。そのため、三菱・いすゞのような作戦は取ることができないのです。そこでマツダがとった作戦は、ある意味で「正攻法」でした。新たに協力先を探したのです。それがGM傘下のオーストラリア企業、ホールデンです。

マツダはボディはホールデンの主力「プレミアー」を使うことができるようになったのです。ただ、このホールデンの車両は、いすゞが輸入し超高級車として仕立てた「ステーツマン・デビル」と同じ車種だったのです。

いすゞとは違うアプローチで最高級車市場にチャレンジ

ですが、マツダはステーツマン・デビルとはまったく違うクルマを作ったと言っても良いでしょう。マツダが、輸入したクルマに行った変更は、
・高級車として日本向けの内装に変更
・13B型ロータリーエンジンを搭載
・日本自動変速機(現ジヤトコ)製3速ATにトランスミッションを変更
です。
いすゞステーツマン・デビルとの決定的な違いは、エンジンです。いすゞはステーツマン・デビルにオリジナルのエンジンをそのまま流用していました。しかし、マツダは、自社の看板とも言えるロータリーエンジンに換装したのです。

この意味として、一つは自社の最高級車として売り出すため、軽量高出力のロータリーエンジンを搭載することがイメージ戦略として必要だったということと、その当時のマツダには6気筒・8気筒の大型レシプロエンジンが無かったというお家の事情があったようです。レシプロエンジンが無いのですから、いすゞのように流用するか、それとも自社エンジンに換装するかの2者択一だったのです。

MAZDAロードペーサー誕生

1975年4月、ロータリーエンジン搭載の「マツダ・ロードペーサー」がフロントセパレートシートの5人乗りが371.0万円、フロントベンチシートの6人乗りが368.0万円で発売されます。また同時に、この時から「mazda」のロゴが使用されるようになりました。それほど、マツダにとってはシンボル的な存在としてアピールしたかったのでしょう。そして、同じ年の10月には51年の排ガス規制対応のため、一部の変更を行っています。

しかし、この価格設定はかなり厳しかったようです。先行するトヨタ・センチュリーより、また日産プレジデントよりも高い価格設定だったのです。当然、「割高感」を感じる人が多かったようです。そのため、目標とする月間生産台数100台をクリアすることはできません。ただ救いだったのは、マツダが換装したロータリーエンジンの存在です。当時は排ガス規制が毎年のように強化されていました。そして、51年はNOxの規制が強化されていて、他のメーカーが対応に苦労する中でマツダは早々にクリアできたのです。このため、対応当初は官公庁から需要が若干でしたがありました。陰のライバル的な存在だったいすゞ・ステーツマンデビルは、この排ガス規制に対応しきれず、わずか2年で生産を終了しています。

ボディと違うコンセプトのロータリーエンジン

ただ、やはり高価格でしたし、デザインもまったくの「アメ車」でしたから日本人のウケは良くなかったようです。また、それまでルーチェまでの取り扱いだった販売網も苦戦の原因だったようです。超高級車を販売するための営業的なノウハウが不十分だったのですね。

更に問題だったのは、排ガス規制では功を奏したロータリーエンジンへの換装でした。元来のホールデンのボディは大排気量で低速域から分厚いトルクを出すことが想定されています。それに対して、マツダが換装したロータリーエンジンは、軽量高回転という特性で低回転域のトルクは弱く更に燃費性能も良くなかったために、ATにトルクコンバーターをつけただけでは歯がたちません。実用としてもパワー不足は明らかでしたし、アメ車以上に燃費も悪くなり、V型8気筒エンジンを搭載していたライバルのトヨタ・センチュリーや日産プレジデントと比較されれば非常に不利な状況になっていたのです。

「3代目ルーチェ」によって幕を降ろしたロードペーサーの歴史

マツダ・ロードペーサーは商業的に明らかに失敗と言われる状況でした。そして、幕を降ろす役目を担ったのは、ロードペーサー以前の最上級車ルーチェです。1977年に登場した3代目は、従来よりも5ナンバー規格に抑えつつ拡大されたボディや、高級感を上げることに注力されていた上に、エンジンはロータリーかレシプロの選択もできたので、顧客側からの選択肢として非常に柔軟だったのです。その結果、ルーチェがマツダの最高級グレードとして位置づけられるようになり、ロードペーサーの生産は打ち切りとあります。

当初の目標だった月間100台の生産台数はクリアされること無く、在庫を使いながら続けられた生産も終了した1979年までの4年間での総生産台数は799台に留まっています。

まとめ

いくら性能の良いエンジンであろうと、使う対象やボディとの相性が充分に折り合わないと、悪い面が強調されてしまうということが良く分かるクルマです。

それでも、ステーツマン・デビルが2年間で250台程度しか生産されなかったのに比べれば、長寿で生産台数も多いのですが、やはりどうしても「商業的には失敗」と言われる状況は致し方ないのかもしれません。しかし、その後、中古車になってからオーストラリアの「マツダ+ホールデン」ファンが輸入するなど、個性的な部分の多い車両です。この後、クリーンディーゼルなど独自技術の活用で業界をリードするマツダが生まれる一つの契機だったのかもしれませんね。