今も少年の心を持つ大人たちを魅了した【スーパーカー列伝】

「スーパーカー」と聞くだけで、なんとなくワクワクしてしまう人も少なくないのでは? 1970年代のスーパーカーブームには火付け役となった「サーキットの狼」がクルマの印象にも影響を与えていたのではないでしょうか? 今日は、サーキットの狼に登場した車種の中から幾つか選んで紹介していきたいと思います。

1970年代のスーパーカーブームをサクッと説明します。

1974年頃から、巻き起こった「スーパーカー」ブーム。ブームの中心はクルマの購買層では無い小学生でした。そのため、カードにスーパーカーのスペック等を書いた書籍(?)や、プラモデルなどが大量に売れていました。特に凄かったのは「カー消し」などとも呼ばれた、スーパーカーの消しゴムです。男の子にとってはマストアイテムになっていたのです。

そのブームの火付け役であり、牽引役となったのが、週刊少年ジャンプに連載されていた「サーキットの狼
」(作・池沢さとし)です。このコミックスの中では主人公がロータス・ヨーロッパを超人的なテクニックで操り、ライバルの乗るフェラーリやカウンタックなどとバトルを繰り広げたのです。このマンガや、関連する書籍などを読むことでクルマやレースに興味を持った子どもたちが、もしかすると、その後のF1などのレースブームを作っていったのかもしれませんね。

では、ここから、サーキットの狼にも出てきた名車たちをピックアップしていきましょう

サーキットの狼の代名詞「ロータス・ヨーロッパ」

ロータス・ヨーロッパ。イギリス生まれの名車です。「サーキットの狼」では主人公「風吹裕矢」が4輪ドリフトなどのテクニックを駆使して公道を走り回りました。コミックスの中ではレースに勝利する度に「★」がつけられていたのを記憶の方も多いのではないでしょうか。

実車は、名門「ロータス」が1966年〜1975年まで製造。近年2006年に、ヨーロッパSとして車名が復活しています。

当時、ロータス初のミッドシップでのエンジン配置し、それまでロータスのフラッグシップモデルだったロータス7の後継車として夜に送り出されました。9年間での生産台数は、9230台だそうです。

まるで押しつぶされたのかと思うくらいの「車高」だったロータス・ヨーロッパ

定員は、2名。サイズは、全長:4,445mm、全幅:1,524mmとコンパクトで、全高は1,067mm。この低さは脅威でした。ミッドシップに置かれたエンジンもあり「後ろ見えてないよね」というのが当時の子どもたちの話題だったようです。

また、車体重量は610kg。完全なライトウエイトスポーツで、コミックスで描かれたとおりワインディングロード中心であれば、低い車体とあいまって、相当な実力だったと思います。この軽量化された車体の秘密はFRPを採用したボディーと、当初積まれていたルノー製のアルミ合金でできたエンジンのお陰でしょう。

後に、Type2として、フォード製のエンジンに代わり、1971年にツインカムとして売りだされた時には、車体重量は711kg。その分、エンジン排気量は、当初の1.4リットルから1.6リットルに、パワーもルノー製の頃には82馬力だったものが105馬力に向上しています。また、アメリカへの輸出のため、後方視認性を上げる必要性があり、バーティカルフィンが低くなっているといった変更が加えられました。

今でも大切に乗っている人を見ると「きっと風吹裕矢が好きだったんだろうな」と思ってしまうクルマです。

スーパーカーは「ランボルギーニ・カウンタック」のための言葉だった

コミックスの中では「ハマの黒ヒョウ」が愛した「ランボルギーニ・カウンタック」。今でも、美しく先進的に見える車体は、マルチェロ・ガンディーニのデザインです。このガンディーニは、他にも多くのランボルギーニ車、そしてスーパーカーのデザインを手がけた鬼才として有名です。もちろん、このカウンタックは代表作と言っても過言ではないでしょう。

生産開始は1971年、イタリア南部の方言で「驚き」を表す「カウンタック」と名付けられたクルマが、当時、見る人達すべてを驚かせたと思います。

当初の販売は、LP500。それまでの主力車「ミウラ」を凌駕する性能を与えようと開発されたミッドシップ・スーパースポーツカーとして、一つの課題がありました。ミウラでは、V型12気筒エンジンを横置きミッドシップにすることで、ホイールベースの短いスポーツ車として非常に優秀な車種となったのですが、一方で、バランスが極端に後寄りになったため、高僧く走行時に挙動が不安定になり、また、横置きの宿命のように、トランスミッション系の配置が複雑になるため、シフト感があっかするなどの問題点がありました。

カウンタックでは、この問題を解決するため、V型12気筒エンジンの縦置きを検討します。このことで重量配分は理想的になり、また、トランスミッション系もシンプルな配置が可能になります。しかし、V型12気筒エンジンは巨大です。縦置きにすれば、そのままホイールベースを伸ばす必要性が出てくるのです。高級セダンなら、長いホイールベースが安定性を高め、乗り心地を良くしてくれますが、スポーツカーではコーナリング性能を落とす致命的な結果を生みかねません。

エンジンを縦置きしつつ、ショートホイールベースを実現

そのため、開発チームでは、エンジンの前後を反転させることを思いつきます。このことで、ギアボックスはエンジンの前夫に配置されます。そのことで、ホイールベースを伸ばさずに済むのです。まさに逆転の発想です。この結果、ミウラよりもホイールベースが延びることはなく…いや更に短くなり2,450 mmを実現することに成功しました。また、このギアボックスの配置は、コクピット下にギアボックスがくるため、ワイヤーが仲介せずにダイレクトに、ギアボックスにシフトレバーが取り付けられます。このため、シフト感も改善というよりも、理想的な感覚を与えることに成功したのです。

こうして誕生したカウンタックLP500。LPの意味は「Longitudinale Posteriore」、ミッドシップの縦置きだそうです。そして500は排気量の1/10を示しています。ただ、このLP500は、発表されたジュネーブのモーターショーで、本当に「驚き」をもって迎えられたのですが、実際には、エンジンの排気効率の問題でオーバーヒートが頻発してしまい、当初は量産ができませんでした。

また、この時期、ランボルギーニは経営危機に瀕しており、市場に出すべく改良を試みたのですが、非常に難航したそうです。オーバーヒート対策のため、その後に見られるエアインテークダクトが仮設でつけらるなどのテストが繰り返されたのですが、結果として、クラッシュテストを実施後、廃棄されてしまいます。

実際、私たちが目にするカウンタックのほとんどは「LP400」と呼ばれる後継車両です。LP500に遅れること3年、ボディーにはオーバーヒート対策のためのエアインテークが多数設置されて登場しました。エンジンはLP500よりも扱い良さを出すため、ミウラで搭載していた3,929ccエンジンに変更され、車体構造はテスト時に当初のセミモノコックでは剛性不足が露見したために、丸鋼管を溶接して組み上げたバードケージフレームにアルミボディを搭載する形にへんこうされました。この変更で、合成の強化だけではなく、軽量化も実現しています。生産台数は150台。

「LP500」と呼ばれた幻のカウンタック

ブームの当時、「LP400よりLP500の方が速いけど、3台しか無いんだ」と噂されていました。でも、先ほども書いたように、LP500は市販されること無く廃車にされています。この噂は都市伝説だったのでしょうか? 実は、LP500は有ったのです。正しくは「LP500S」として。

生産台数わずか3台のLP500は「ウォルター・ウルフ・カウンタック」と呼ばれLP400のスペシャルモデルとして作られました。F1ファンの方にはご存知の方も多いと思いますが、当時のウォルター・ウルフはカナダの石油王で、自らのF1チームをポケットマネーで運営していたと言われたていました。このウォルター・ウルフ、実は熱狂的なランボルギーニファンだったのだそうです。その彼が、実車販売されたLP400を買わないはずがありません。しかし、LP400を手に入れたウルフには不満の残るクルマだったそうです。そこでウルフ自らが指導に乗り出し、リアウィングを大型化し、オーバーフェンダーをつけて、コンセプトカー「ブラーボ」に取り付けられていたホイールを転用し、ピレリP7の超扁平タイヤを着けるなどの改良を施します。こうして赤く塗装された「1号車」は1975年に出荷されます。

それでも、ウルフには不満が残っていたようで、特別製のエンジンを搭載しサスペンションを改良したカウンタックを作らせます。これが2号車で、塗装は青だったそうです。

そして「究極のカウンタック」と呼ばれる3号車が生産されます。こちらは、ウルフの改良に更にF1コンストラクターで有名だったダラーラがフレーム・ブレーキ・クラッチなどに手を加えるのです。ただ、この時、2号車のエンジンは通常のLP400用エンジンに換装されたそうです。

実在しているのか?と言われた「ランボルギーニ・イオタ」

コミックスでは「潮来のオックス」の愛車で、当時「幻の名車」と呼ばれていたランボルギーニ・イオタ。「イオタは存在していない」とか、当時は、今のようにネットもなかったので、とにかく謎に包まれたクルマでした。

イオタはランボルギーニで1969年に生産しています。それもたったの1台だけですが。当時、FIAの競技規則「J」に合わせるために、Jと呼ばれて生産されたこの車両は、ミウラ改良のため、先行開発するという名目のもと、競技規定 付則J項のプロトタイプ・クラス車両規則に適合させながら製造された実験車両でした。

この「J」は外見は、ほぼベースのミウラと同様、また、パワートレインもミウラの流用でした。しかし、車両の基本となるシャーシ部分はリア部分の一部以外は、全く異なる独自の設計を採用したそうです。そのため、トレッドも広く、ブレーキはベンチレーテッド・タイプのディスクに変更されています。

また、シャーシは鋼鉄製ですが、軽量化のため部分的に軽合金が採用されています。シャシーとボディーパネルはブラインドリベットで接合されているのですが、これが「J」とミウラを識別する簡単な方法になっていました。
エンジンパワーは、ミウラよりもチューンナップしているため、圧縮比は11.5となり、最高出力440ps/8,500rpmとされています。

「J」のレプリカとしてランボルギーニが生産したイオタ

しかし、この「J」は、走行実験の後、売却され、数人のオーナーを経由した後、自動車販売業社が新たなオーナーの元に届けるときに行った高速テスト中、横転、廃車になってしまいます。これで、たった1台の「J」すなわちオリジナルのイオタはこの世から消えてしまいます。

しかし、カウンタックに見せたウォルター・ウルフの執念のように、「J」にもランボルギーニの工場で魅せられた人たちがいました。そして、ランボルギーニは「J」のレプリカ車両を生産します(公式には7台といわています)。ベース車両はもちろん「ミウラ」。そして、この「J」のレプリカが生産され始めると工場内で「J」を使った愛称「Jota(イオタ)」が使われだしたそうです。

また、ミウラをベースにした改造はランボルギーニの純正以外にも行われていたようです。何れにしても私たちが観ることのできるイオタは「J」に憧れて、それに近づけたミウラだと思ったほうが良いのかもしれません。でも、きっと魂はイオタそのものなのでしょうね。

カウンタックのライバル「フェラーリ512BB」

コミックスでは完全に悪役だった「フェラーリ512BB」。当時はランボルギーニ・カウンタックと人気を二分したクルマでした。販売開始は、1976年。1981年に512BBiへとマイナーチェンジされ、1984年にテスタロッサが登場するまで生産が続けられました。そして、512BBの公称最高速は、302km/h。カウンタックが300km/hでしたから、フェラーリ自身もライバル視していたのは間違いないでしょう。

ボクサーを名乗ったV8エンジン搭載車

ただ、実態としては、このクルマの先代となる365GT4BBの排気量を約600ccアップし4,942ccとしたマイナーチェンジ版とされています。その一つの理由は排気ガス規制対策だと言われています。そして、365GT4BBでは多用されていたFRPやマグネシウムのパーツをスチールやアルミに置き換えています。このため、車重が120近く重くなっているのですが、これはコスト対策だったそうです。

この「512BB」というネーミングは、フェラーリの命名慣習を破ったものでした。それまでフェラーリは1気筒あたりの排気量を車名に使っていたのですが、このクルマは違います。実際には、排気量の「5」を先頭の一桁に、そして続く「12」は気筒数を表しています。BBはBerlinetta Boxer の略で、日本語風に書けば2ドアクーペを意味しています。ただ、実際にはボクサーでは無く180度のV型エンジンなのですが。生産台数は、929台です。

デザイン、実力ともに名車と呼ばれる「フェラーリ・デイトナ」

またの名を…というか、正しくは「365GTB/4」となるフェラーリ・デイトナ。1968年にパリ自動車ショーで発表されたのですが、その前年、アメリカのデイトナ24時間レースでフェラーリの330P4、そして412Pが圧倒的な強さで1-2-3フィニッシュの完璧な結果を残したことから自然発生的に「デイトナ」という愛称が生まれたそうです。ちなみに365GTB/4の命名は「365」単体シリンダーの容量、「GT」はグランツーリスモ、「B」はベルリネッタ(クーペ)を示しています。そして最後の「4」は4カムシャフト(DOHC)を意味した数字になっています。

ボディーデザインはピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティのコンビが担当していて、やはり美しい仕上がりですが、その中身は、V12・6ウェーバーキャブレターエンジンが搭載され、最高速度 280km/h、0-60mph加速が5.4秒という当時としては脅威のパワーを誇っていました。また、フェラーリのスーパースポーツとしてはデイトナの後、暫く使われなくなったFRが採用されています。このことで操縦性の良さも非常に良く、1972年からル・マン24時間耐久レースではGTクラスで3年連続優勝。また、生産中止後6年経ってから1979年のデイトナ24時間レースで2位表彰台などの素晴らしい成績を残しています。

1970年代を代表する美しいデザイン

そんなデイトナは、今でも高い評価を受けていて、自動車雑誌「Sports Car International」では2004年に「1970年代最高のスポーツカー」に選定さて、「Motor Trend Classic」誌では「全ての時代を通じたフェラーリの最高車種」の第2位に選ばれています。そのため中古車価格は高値で推移していて、シボレー・コルベットをベースなどをベースにしたレプリカ車両も存在しています。

ちなみに、先ほど書いたカウンタックと512BBと同様、このデイトナもランボルギーニのライバルとして見られていました。対象となったのは、生産時期が重なったミウラです。この2台、生産時期だけではなくスペックも似ていたのは、単なる「時代」の要請だったのでしょうか?

フェラーリが作った「ディノ246GT」

交通機動隊のパトカーの隊員だった沖田。風吹裕矢のライバルの愛車がディノ246GTです(普通は「ディーノ」と書きますが、コミックスの表記に敬意を表して「ディノ」と書きます)。フェラーリで製造されながら「フェラーリ・ディノ」とは呼ばれません。それはフェラーリの創業者エンツォ・フェラーリの長男で1956年に若くして亡くなったアルフレード「ディーノ」フェラーリが亡くなる前、病床で出したアイデアが実現されたクルマだと言われていて、そのためエンツォは、新ブランドとして「ディノ」を作り、その名のもとに販売したのだそうです。

初代のディノは1965年のパリサロンで発表され、1967年から生産が開始されています。この時点ではV6、2,000ccの185PS/8,000rpm、17.85kgmというスペックのエンジンを搭載しています。この206GTは1969年までに152台が生産され、次の246GTへとバトンタッチをしています。

乗りやすさを向上させた「246GT」

レース使用を目指して作られた206GTから、その仕様をロードカーへと振ったのが246GTです。まず、コストダウンのためエンジンが鋳鉄ブロックアルミヘッドに変更され、排気量自体も2,418ccに大きくなっています。195PS/7,600rpm、23.0kgmにパワーアップしています。その一方で運転しやすくするため、カムシャフト変更を変更したと言われてます。ただ、この変更は非常に大きくクルマの性格自体を変えています。それまでの206は、いわば「乗り手を選ぶクルマ」だったのに比べ、246は「スポーツカーを扱える者ならば普通に乗れる車」になったのです。また、燃料タンクも10リットルの増量が行われ、ホイールベースを60mm延長したことで、コーナー挙動を安定させてもいます。このホイールベースの延長は、居住空間も広くする効果ももたらしています。

ラリーのために作られた「ランチャ・ストラトス」

風吹裕矢のライバル「北海の龍」の愛車、ランチャ・ストラトス。イタリアのランチャ社が、WRCのために開発したスーパーカーです。このクルマは「STRATOS」と書かれている事が多いのですが、本来は「STRATO'S」と実車のロゴになっています。

このストラトス。後期タイプのストラーダが特に有名ですが、完全にラリーのために作ったクルマと言って良いでしょう。ラリーに出走するために必要なグループ4の認定は1974年10月に出たのですが、ストラトスに搭載していたエンジン(フェラーリ製)の供給が途絶えがちだったため、ラリー出走規定にひつようだった生産台数をクリアしたのは、翌年になってからのことでした。

このクルマのスペックを「ラリーの申し子」ではなく「乗用車」として見ると、かなり厳しいものがあります。まず、定員は2名、ラゲッジスペースは、エンジン(リア搭載)の後ろ側にトレーがあること、そして、ドアポケットにヘルメットが入る程度の奥行きを確保していることぐらいです。また、ラリーのため、馬力そのものより、運転性を重視していたため、当時の「スーパーカーマニア」にとっては、エンジンスペックが他のライバルよりも低いなど、魅力に欠けた存在だったようです。これらが組み合わさった結果、商業的な成功には結び付かなかったといえるでしょう。

ディノと同じエンジン。でも味付けを変えてラリー用に

さて、さきほど書いたように、このクルマのエンジンはフェラーリ製でした。このフェラーリ製のエンジンは、ディノとの共有だったために人気のあるディノ、しかも親会社フィアット傘下のブランドになったクルマへの供給が優先されていたようです。しかも、ランチアは1973年におきたオイルショックが影響し、ランチャとして利益が上がるものにはなりませんでした。結果として、ラリーへの出場権は獲得したものの親会社フィアットの意向もありストラトスは492台で生産を中止しています。(しかも、ストラトスの生産を行っていたグルリアスコ工場で火災があり、全生産台数の2割程度が焼失したと言われています。そのため、当時の残存数は400台未満と見られます)

結果として、ランチャはラリーの世界から身を引かざるをえませんでした。ラリーについては、フィアットが担い、ランチャはランチアはスポーツカーレースへの参戦に舵を取らなくてはならなかったのです。

さて、話をストラトスに戻しましょう。さきほど書いたように、エンジンはディノ(246GT/GTS)に採用されていたものを使っています。このエンジン、元々はF2用に開発されていたため、高回転域に向けた特性を持っています。しかし、ストラトスはラリー用のため、この仕様は少々都合が悪かったのです。そのため、ラリー用に中低速重視へセッティングが見直されます。結果として、最高出力は5PSのパワーダウン、、発生回転数は200rpm下げています。また、さらにシリンダーブロックやピストンなどはディノと同じものを使いましたが、カムやクランクシャフトなどはストラトス専用に変更しました。エンジンの配置はリアミッドシップの横置きで後輪駆動です。最高速はディーノ246GTと比べ遅くなっていて230km/hになります。

軽自動車よりも短いホイールベース

また、ストラトスの外観と一緒に大きな特徴になっているのが、ホイールベース長です。ホイールベースは長いほど直進安定性を得やすい代わりに、コーナリングでの機敏さが失われやすいとされています。このストラトスホイールベースは2,180mmと現在販売されている軽自動車の2,400mm前後よりも、短いのです。
つまり、コーナリングが多いラリーを意識してホイールベースを極端に短くしたのです。このことで、レースに出たドライバーたちには、かなり厳しい状況だったようです。その挙動については、WRCで実戦経験のあるミシェル・ムートンやビヨン・ワルデガルドはメディアの取材に対して「全てのコースがコーナーであってくれれば良いと思ったくらい」「直線では気を抜けない」と語っています。つまり、直線では安定性を欠くが、コーナリングでは競争ができるクルマにはなっていたのですね。ただ、極端すぎる回頭性能ゆえに、やはり性能を引き出せるだけのテクニックと慣れは、相当高いレベルを要求されていたようです。

日本が誇る贅沢なスーパーカー「トヨタ2000GT」

金髪ハーフの隼人ピーターソンの愛車「トヨタ2000GT」。エンジンなどにヤマハが技術提供していたのは有名な話ですが、今でもトヨタが誇る名車です。

この2000GTが登場する以前、既に日産にはフェアレディZがあり、そしてホンダにはSシリーズと既に日本でもスポーツカーの生産が始まっていました。しかし、トヨタには、トヨタスポーツ800があるだけで、本格的なスポーツカー市場には乗っていなかったのが実情です。このため、トヨタとしてのフラッグシップモデルになりうるスポーツカーとして1964年から開発されたのが「トヨタ2000GT」です。

しかし、トヨタというメーカーは現在もピーキーな印象はないと思いますが、当時は実用車を手堅くつくることに専念していた時期でした。そのため、高性能エンジンや高級な「GTカー」としての内装などにはノウハウを欠いていたのです。自力で開発するだけの経験にかけている状況だったのです。

ヤマハ抜きでは語れないトヨタ2000GT「開発秘話」

そこに登場するのが「ヤマハ発動機」です。既にバイクメーカーとしての地位を確立していたヤマハは、日産と提携し高性能スポーツカーの開発を進めていました。しかし、開発コード「A550X」と名付けられた試作車まで作られたのですが、日産の事情から計画が1964年に中止されていたのです。

運命的な、なにか奇妙な符合すら感じさせるタイミングですが、ヤマハはスポーツカー開発のパートナー探しに入ります。そして、トヨタと手を汲んだのです。翌年1965年の1月からトヨタの開発チーム4名がヤマハ発動機に出向いてプロジェクトがスタートします。そして4月末には最終設計図が完成し、計画開始から数えても11か月しか経っていない8月に最初の試作車が完成します。


さきほど書いたトヨタの欠点である「エンジン」「内装」ですが、ここにはヤマハの伝統的な技術が活用されました。ヤマハのエンジン部門(ヤマハ発動機)は戦時中に航空機用可変ピッチプロペラの装置が起点となって、1950年代の半ばにはモーターバイクの業界に参入、成功を納めていましたし、この開発時点では二輪車の方が4輪に先駆ける形で高性能エンジンの研究が進んでいたそうです。この経験を活かしてヤマハがトヨタの量産エンジンを改良し、DOHCエンジンを製作しています。またヤマハ発動機の本流である楽器メーカー(日本楽器製造)は、楽器の材料である高級材に対する経験が豊富で、インストルメントパネルやステアリングの材料供給だけではなく、加工も担当したのです。

なぜ「幻の名車」として語り継がれるのか?

1967年、2000GTの生産が開始されます。生産はヤマハが担当し、販売がトヨタとなりました。この時の販売価格は238万円。高級車クラウンの当時の価格と比較すると2倍。超高級スポーツカーとして売りだされました。しかし、この価格でも実態としては赤字になっていたというのですから、どれだけ手の込んだ作りになっていたかが伺われます。

この価格設定もあり、また、トヨタとしてもフラッグシップモデルとしての役割を充分に果たしたという判断から1970年に生産を終了します。生産台数は337台です。しかし、この337台という数以上に、2000GTが「幻の名車」として今も語られるのには理由があると思います。

一つには、そのスペックを上げることができると思います。DOHCのエンジンを載せ、4輪独立懸架の足まわりに、4輪全てにディスクブレーキ、専用の鋳造マグネシウム製ホイールを履かせています。また、5速のフルシンクロメッシュ・トランスミッション、ラック・アンド・ピニオン式ステアリングでドライバーを楽しませ、さらに高級材を使ったパネルやステアリングという作りは、1960年代では、世界的も珍しいくらい先進的でしたし、贅を尽くしたものでした。

また、もう一つは「ボンドカー」への採用でしょう。日本を舞台にした「007は二度死ぬ」に、オープン仕様の2000GTが登場しています。実際に市販された2000GTはクーペタイプだけですが、この映画のために生産されたものです。映画の撮影用と予備、たった2台のオープン仕様車でした。このうちの1台はトヨタ博物館に収蔵されており、もう1台もレストアされているそうです。ちなみに、なぜオープン仕様にしたのかといえば、当時ジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーには狭すぎる車体だったため、オープンにしなければ乗ることが出来なかったからだそうです。

まとめ

マツダ・コスモスポーツ、日産フェアレディ2000、ポルシェは911カレラRS、930ターボ、デ・トマソ・パンテーラGT4、コルベット・スティングレイなどなど「サーキットの狼」に登場したスーパーカーは本当にたくさんあります。また、童夢などコミックスには掲載されなかったけれども、同時期に発売されていたスーパーカーなどもあり、街なかにはお父さんから借りたカメラ片手にスーパーカーを探す男の子たちがたくさんいた時代でしたね。

当時のスーパーカーファンも、いまは結構な大人ですね。当時のまま、スーパーカーを運転している方もいるでしょうし、全く違う嗜好や考え方でクルマを操っている方も多いと思います。ただ、今でも街なかで当時のフェラーリやランボルギーニを見るとワクワクしてしまう気持ちは共通かもしれないですね。