【織戸学】土屋圭一の後継者、ポストドリキンの魅力に迫る

自動車雑誌CARBOY主催のドリフト大会で頭角をあらわし、その腕前を買われてレーシングドライバーとしてデビューしたという異色の経歴の持ち主織戸学選手。ドリフトキングとして知られる土屋圭一氏との師弟関係は有名でポストドリキンと呼ばれた時期もありました。そんな織戸学選手の名言や愛車といった情報をご紹介します。

織戸学とは?

出典:http://www.orido.jp/profile/

織戸学選手がレーシングドライバーに憧れを持ったのは小学校2年生の時だといいます。当時の憧れのレーサーは「日本一速い男」の異名をもつ星野一義選手でした。星野一義選手に対しての憧れや、カーレーサーという職業に対する憧れは日を増すごとに増大していき、中学生になると筑波にあるガレージメッカという所に住み込みで働かせてもらおうと決意、自転車で片道5時間もかけて筑波まで出向いたそうです。

自動車に対して一心不乱で真っ直ぐ、どんな時でも妥協を許さない熱い情熱で、ドリフト競技やサーキットで国内外問わず様々なカテゴリーを経験し、今も現役で活躍する日本を代表するレーシングドライバーの1人です。

また近年はレーシングドライバーとしての活躍以外にも、自身のオリジナルブランドの立ち上げ、新しいモータースポーツ規格を計画、レーシングシミュレーターを使った店舗経営など、実業家としても活躍しています。

プロフィール

生年月日:1968年12月3日
血液型:RH+A型
身長:177cm
体重:68kg
出身地:千葉県船橋市
趣味:ジェットスキー、オートバイ

漫画イニシャルDの大ファンとしても知られており、同作品の雑談会ではD1ドライバーの今村陽一選手、師匠の土屋圭一氏と共演しています。また初めてのマレーシア遠征の際に、暑さ対策として岩塩を奨められたのですが、当時は岩塩が何かよくわかっていなかったので茶碗一杯分の岩塩を摂取、塩分過多で病院へ搬送され生死の境をさまよったという経験をしています。

またゲームソフトにも登場した経歴があり、プレイステーション2専用ソフトの首都高バトル01にオリマブ名義で出演、隠しキャラとして最強の性能を誇りプレイヤーを苦しめました。ゲームで搭乗していたのは織戸選手のプライベートでの愛車であるトヨタ スープラでした。

レーシングドライバー織戸 学公式サイト

年収はどれくらい?

公式サイトなどには年収の記載はありませんでした。数多くのスポンサーを獲得しており、スーパーGTではGT300クラスで現役、そして実業家として店舗経営もしているので推測になりますが年収はだいたい6,000万円から7,000万円程度ではないかと思われます。

戦績

プロのレーシングドライバーとしてデビューしたのは1991年のことでした。翌1992年には国内でトップドライバーを多数輩出したアマチュアレースの最高峰、富士フレッシュマンレースへ参戦し、NA-1600クラスのシリーズ優勝を飾る活躍を見せます。翌1993年には当時アマチュアレーサーの間では参戦も難しいといわれた伝説のシリーズ、鈴鹿フレッシュマンレースへ参戦することになります。第3戦からの参加となり、N2-1600クラスで優勝3回、シリーズランキング3位とここでも好成績を残しました。

1996年に日産 シルビアを駆り全日本GT選手権に参戦、翌1997年も日産 シルビアでGT300クラスに参戦しシリーズチャンピオンを獲得しています。1998年と1999年にはゆかりのある坂東正明氏が率いるレーシング・プロジェクト・バンドウからトヨタ セリカで参戦、シリーズランキングは2位、3位と好成績を残します。

2000年からは土屋エンジニアリングからGT500クラスに参戦します。その2年後にはチーム・サードに移籍、翌2003年にはGT500クラスで待望の初勝利を納めます。その翌年の2004年には再び土屋エンジニアリングへ復帰、第2戦スポーツランドSUGOでの2位、第6戦のオートポリスで3位と2度の表彰台を獲得する活躍をみせます。2005年も引き続き土屋エンジニアリングから参戦、開幕戦岡山国際サーキットで勝利を収めます。

2006年には土屋エンジニアリングを立ち上げた土屋春雄氏の息子である土屋武士選手とコンビを組むことになります。前年型スープラを使用せざるを得ない状況で苦戦、シリーズランキングは19位に終わってしまいました。2007年も同体制で参戦、マシンは前年の型落ちマシンではありますがレクサス SC430が支給されます。これによりたびたびシングルフィニッシュを果たし、シリーズランキングも17まで順位を上げることになります。

2008年にはかつてチャンピオンに輝いたレーシング・プロジェクト・バンドウに復帰してGT300クラスを戦うことになります。2009年にはレクサス IS350を駆り開幕戦岡山国際サーキットでの勝利をはじめ、コンスタントに上位入賞を繰り返し、実に12年ぶりとなるシリーズチャンピオンに輝きました。

2011年からは日本におけるランボルギーニのオーナーズクラブ、JLOCへ移籍、2014年の第4戦スポーツランドSUGOではランボルギーニ移籍後初の勝利を収めました。以降2016年現在もランボルギーニを駆りスーパーGTへ参戦しています。

また1999年にはアメリカのストックカーレースの最高峰、NASCARウインストンカップへもスポット参戦します。第10戦アーウィンデール・スピードウェイではマシンに戸惑ったのか、ピットレーン入口で減速しきれずスピンするなど、レース中にたびたびスピンを喫してしまいます。しかもピット作業中にガソリン給油に失敗、大火災を起こすアクシデントに見舞われリタイアとなってしまいました。

最終戦ツインリンクもてぎでは予選5番手という好結果を残し決勝に期待をかけます。しかしオーバースピードでコーナーに突入してしまったのかマシンはウォールにクラッシュ、マシン右半分は完全に壊れてしまい、なんとかピットロードへ帰還しますがそのままリタイアとなってしまいました。

織戸学のヘルメットは?

織戸選手のヘルメットは側面に大きな星のマーク、そして正面から後ろにかけて大きな炎のようなデザインと側面の後ろから正面にかけて矢印のようなデザインが施されています。このデザイン自体は数年変わっていませんが、カラーリングだけは細かく変更されています。

そしてこのデザインには織戸選手のこだわりがあり、特に矢印のデザインに関しては自身の憧れる偉大なF1ドライバー、ナイジェル・マンセル氏のヘルメットデザインにインスパイアされたものとして大変気に入っているようです。荒法師と呼ばれたマンセルの大胆な走りと1つでも前に行こうという熱いスピリットに織戸選手は大変感銘を受けたそうです。

ちなみに使用しているメーカーは、埼玉県に本社を置く、レース用のヘルメットを作っているアライヘルメットです。アライは織戸学選手以外にも国内で活躍するレーシングドライバーだけでなくF1で活躍している海外のドライバーでも愛用者の多い知名度と信頼度の高いメーカーです。

またデザインを印刷しているのはハイデックス・デザインという会社で、この会社もレーシングドライバーのヘルメットデザイン印刷に関してはかなりの大手の会社となります。この会社がヘルメット印刷を手がけた他のドライバーには中嶋一貴選手やアンドレ・ロッテラー選手といった有名選手もいます。

織戸学といえばドリフト

日本で初めてのドリフトの全国大会で優勝したことがプロレーサーとしての出発点となります。自身もドリフトが原点であると公言しているほど織戸学選手とドリフトは切っても切れない関係にあります。

ドリフトとは車体を横にスリップさせながらコントロールする走行技術のことで、絶妙なアクセルワークやハンドリング操作が必要になる高度な技術となります。織戸学選手のドリフトは豪快なだけでなく、針に糸を通すような繊細さも持ち合わせており、速度があるだけでなく迫力もあり、それでいてライン取りも美しいのが特徴です。実際に1990年代前半はドリフトの名手としてすでに伝説的な存在であり、織戸学選手に憧れた走り屋がとても大勢存在しました。

D1グランプリとの関係

2001年の第1回大会から審査員として関わっています。そしてなにより、D1グランプリが海外にまで進出し、そして人気を博すようになったのは織戸学選手と土屋圭一氏両名の知名度と努力によるものが大きいといえるでしょう。

2004年まで審査員を務めた織戸学選手ですが、2005年初頭に開かれた東京オートサロン2005にて「今年より選手としてD1グランプリに参戦します」と表明します。現役GTドライバであり、ドリフト愛好家のカリスマ的存在だった織戸学選手の参戦表明はモータースポーツのファン、関係者の間で大いに話題となりました。

使用車両はトヨタ スープラで、しかもこの車両は水没車であり、廃棄寸前のところで織戸学選手が引き取り、土屋エンジニアリングとオートプロデュース・BOSSの両社で車体を再構築しました。しかしアメリカのアーヴィンデール・スピードウェイで行われた開幕戦では完成が間に合わず、暫定車両での参戦となり、単走1回戦敗退を喫してしまいます。

舞台を日本に移した東京お台場での特別ステージで行われた第2戦では当時の絶対王者、今村陽一選手を序盤のベスト16で下すという波乱を演出しました。しかし続く植尾勝浩選手との対決でデフブローが発生、リタイアとなってしまいます。

第5戦エビスではHKSのボアアップキットで排気量をアップ、これによるレスポンス低下を防ぐためにホリンジャー製のシーケンシャルミッションを新たに搭載するというチューニングを施して、万全の状態で挑みます。土曜日に行われた予選ではまだマシンに慣れていない様子をみせましたが、ぎりぎりのラインで予選通過、日曜日の本戦では1回戦で100点満点を記録する活躍をみせました。

ベスト16では、2004年度チャンピオンで日産 フェアレディZを駆る三木竜二選手を下すと、ベスト8でも谷口信輝選手を下しベスト4進出を決めます。

注目のベスト4は日産 スカイラインを駆る手塚強選手との対決となりました。1本目は6対4で劣勢となりましたが、2本目では接触したことにより手塚強選手のテールが大きく流れ、ウォールにクラッシュするアクシデントが起きます。この結果により織戸選手は決勝進出を決めます。この決勝進出によりD1ドライバーとしての自身最高位を記録することになります。

ドリフトのカリスマとして、D1シリーズ初の勝利が期待された中行われた決勝戦は、このシーズンですでに3勝を挙げる活躍を見せており、また師匠である土屋圭一氏の個人事務所に所属する日産 シルビアを駆る風間靖幸選手との対戦となりました。両者とも全開で繋げようとしましたが、後から振り出した織戸選手のほうがウォールに右リアを激しくヒットさせてしまいます。そしてコントロール不能になってしまった織戸選手のマシンは審査席前のスポンジバリアも突き破って土手にクラッシュ、オイルクーラーを破損する事態を起こしてしまいます。この結果残念ながら準優勝に終わってしまいましたが、ルーキーとしては上々の成績といえる内容でした。

続く第6戦の富士スピードウェイでは自身初のシード権を獲得して乗り込みましたが走りが地味という厳しい評価を受け、まさかの1回戦敗退を喫してしまいます。そしてこの段階で最終戦は不参加が確定していたため、この瞬間に織戸選手のルーキーイヤーは終わってしまいました。ドリフト界のカリスマとしては不満の残る結果でした。しかしD1で使用していたスープラは故障が多発する状態だったということまた、ルーキーイヤーだったことを考えると上場の成績といえます。そしてこのスープラは第6戦後には大型トラックに追突されて廃車になっています。

2006年もカラーリングやスペックがほぼ先代と同じ2号機を完成させますがD1グランプリへの参戦は見送られました。この年から参戦を見送った経緯については諸説あり、D1事務所側に審査について問題点を提示したところ、この苦言を事務所側が快く思わなかったために不仲になったなどいわれていますが、真相は不明です。

2008年になり次第に復活の噂が関係者からささやかれるようになります。そして遂に開幕戦エビス東では谷口信輝選手とともにブリーフィングルームへあらわれ、参戦を表明することになります。この年スーパーGTでも所属していたレーシング・プロジェクト・バンドウから、使用車両もGTと同じレクサス IS350での参戦で、第5戦のみのスポット参戦でした。そしてこの第5戦はマシンは完成したばかりということもあり、トラブルが多発、修復は不可能と判断されリタイアに終わってしまいます。

2010年には使用車両を再びスープラに戻し参戦します。そして翌2011年には第3戦オートポリスで待望のD1初勝利を挙げることになります。

2012年には再び使用車両を変更、今度はトヨタ 86を使用しての参戦となります。この車両のエンジンにはレクサス IS Fに搭載されている2UR-GSEをチューニングしたものが搭載されています。こうした体制で挑んだ開幕戦はマシンの熟成不足が露呈してしまいエンジントラブルでリタイアしてしまいます。しかしシーズンが進むごとにマシンは熟成されていき、コンスタントにポイントを獲得する活躍をみせました。

2013年は使用車両は86のまま、エンジンはシボレー コルベットに使用されているV8エンジンへと変更されました。このカスタマイズによりマシンはさらにパワーアップ、第4戦では2位を獲得します。

2015年10月15日、この年をもってD1グランプリからの引退を表明します。理由はやりたい事はすべてやりきったから、とのことでした。選手として最後のレースとなった最終戦はエンジンブローによるリタイアに終わってしまいましたが、翌日に行われたワールドチャンピオンズのフィナーレでは初参戦となった2005年度のスープラが登場し、メモリアル追走を披露、ドリフト界のカリスマの引退を皆で惜しみました。

選手としては引退してしまった織戸選手ですが、ドリフトの世界から離れるつもりはないとの事です。今後どのようにドリフトと関わってくれるのか注目されます。

織戸学の心に響く名言をご紹介

織戸学選手の名言として

「俺の人生いつでもテールスライド 咲かせてみせますドリフトの華 今日もどこかでローリングナイス」

というものがあります。発言の詳細は不明で詳しい意味もわかりませんが、レース好き、自動車好きには何となく心に響くものがあります。語呂が良く短歌のようにまとめているところも織戸学選手のセンスの良さを感じます。この名言をあしらったTシャツも販売されているほど、ファンには有名な一句です。

織戸学のお店はどこにある?

出典:http://www.130r-yokohama.com/

プロのレーシングドライバーとして以外にも実業家としての顔も持つ織戸学選手は、自身の経験と自動車好きを活かしたお店を2013年の2月にオープンさせています。このお店では織戸学選手のオリジナルグッズがたくさん販売されており、ブルゾンやタオル、Tシャツといった定番グッズからエナジードリンク、パワーストーンといったものまで取り揃えられています。

また、最大の目玉としてプロのレーサーも使用しているような本格的なレーシングシムが体験できるというものがあります。スーパーGTの車両からF1まで様々な車種の本格的なドライブが体験できる貴重なシミュレーターで、サーキット走行経験者はもちろん、無免許で自動車運転の経験すらないという人でも利用できるものになっています。織戸学選手本人がコーチングしてくれる日もあり、ファンなら一度は足を運んでみたいですね。お店の詳細は以下に記します。

店名:130R Yokohama
住所:〒224-0025 神奈川県横浜市都筑区早渕1-24-16

レーシングドライバー織戸 学公式サイト

織戸学が考えた新しいモータースポーツとは!?

出典:http://www.dome.co.jp/cheetah/cheetah.html

モータースポーツはお金と場所がかかり人を選んでしまいます。そんな中で織戸選手が考えたのが都市型エンターテイメント施設で楽しめて、ハイエースクラスの自動車で持ち運べる新しいタイプのレーシングカート、マイクロフォーミュラのcheetahです。

前述のように場所を選ばずに本格的なレースが楽しめるのが最大の特徴で、さらにチューニングやモデファイといったドライバーとしてだけでなく、メカニックとしてもモータースポーツに手軽に携われるという利点があります。

このcheetahはチューニングメーカーの童夢と共同開発で企画は進んでおり、早ければ2016年の夏頃には何らかしらのアクションがみられると思います。この企画が本格的に動き出せば、織戸選手のお店でも取り扱いが行われたり、レース場として何らかの提供があることが予想されます。

織戸学の愛車をご紹介

GTでは日産、トヨタ、ランボルギーニといったマシンを操ってきた織戸学選手はプライベートではどんな車に乗っているのでしょうか。調べてみました。

自動車

出典:http://www.premium-jp.com/remusblog/minkara.carview.co.jp/userid/1118995/blog/24613561/HomepageClone-index.html

織戸選手の愛車はトヨタ スープラ、トヨタ レクサスLS、シボレー アストロでした。プライベートでは大のトヨタ党のようで、特にスープラには並々ならぬ思いがあるようです。購入のきっかけとなったのは2000年の全日本GT選手権にてスープラを運転する機会が与えられたときのようで、購入してすぐにシートのポジションを改造、GTと同じようなポジションにして、毎日がGT気分を楽しんでいたそうです。

織戸選手のスープラ愛はかなりのもので、前記のようにD1グランプリでも水没した車両を引き取ってリビルドして参戦したり、プライベートで所有しているものも計5回は色を塗り替えているそうです。またエアロパーツに至っては気に入ったパーツが存在しないため織戸選手自らがデザインしたパーツを一から作り出し、着用するほどの徹底ぶりです。

また米国トヨタで販売されているフルサイズピックアップトラック、タンドラも所有しているようです。迫力ある大きさと燃費の悪さ、そして限定仕様の豪華な内装がお気に入りと話していました。

バイク

織戸選手は自動車だけでなく、バイク好きでもあることが知られています。愛用しているバイクとして有名なのがかのハーレーダビッドソンです。そして自身が経営している130R YOKOHAMAには黒いカワサキのバイクの姿も確認されます。おそらく織戸選手の愛車だと思われますが詳細は不明です。

織戸学の娘さんはどんな人?

織戸学選手は既に結婚されており、娘さんがいることも判明しています。名前は織戸美莉(おりどみり)さんという方で誕生日は不明ですが現年齢は18歳くらいだと思われます。6歳のころからバレエをはじめ、それ以来バレエの魅力にすっかり魅了されたようです。

日本に居た頃はワイダンスカンパニーというバレエ教室に所属しており、2014年4月のラトビア国際コンクールではクラシック部門(15才から17才)で金メダルを獲得するほど活躍しています。ほかにもヨコハマコンペティション赤い靴賞などのコンクールを受賞しています。

2014年の織戸学選手のブログで、現在はカナダで住んでいるという報告がありました。バレエの夢を求めて海を渡った織戸美莉さんの今後の活躍に期待したいですね。

まとめ

派手なドリフト競技のみならず、サーキットでも活躍してきた織戸学選手。見た目通りの家族思いで優しい人柄もよく知られておりモータースポーツファンから愛されています。残念ながらD1グランプリは引退してしまいましたが、現在もスーパーGTのGT300クラスでは現役で頑張っています。

もうすぐ50歳を迎えるとは思えないアグレッシブな走りはまだまだ健在で、これからも末永く活躍してもらいたいレーシングドライバーです。またcheetahの企画が順調にいけばそろそろ始動しはじめる予定なので、そちらもどのような展開をみせるのかとても楽しみです。