【伊藤大輔】40歳を超えて渋さを増すいぶし銀ベテランドライバー

ミドル・フォーミュラからの経歴を数えると現役生活20年を超える、サーキットのいぶし銀伊藤大輔選手。2008年には命も危ぶまれる大事故を経験しながらも奇跡の復活を果たしました。そんな伊藤大輔の経歴や年収、事故の詳細をご紹介するとともに、不屈の精神力と体力で40歳を迎えてもなお第一線で活躍し続けるタフな魅力に迫ります。

伊藤大輔とは?

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現在スーパーGTを主戦場として戦っている日本のレーシングドライバーです。小学校の頃はソフトボールを、中学生では野球を経験しているスポーツ少年でした。レースに興味を持ったきっかけは中学生の時に鈴鹿サーキットに訪れたことがきっかけで、当時はまったく興味のなかった世界だったそうですが、サーキットを疾走するグループCカーの迫力に魅了されすっかり虜なりました。

以降テレビやサーキットでレースを観戦しているうちに「レーシングドライバーになら、なれる」という奇妙な自信を抱きはじめるようになったそうです。高校生になり真剣にレーシングドライバーへの道を模索し、必死でアルバイトをしながらレーシングカートを購入、そして1995年に開校された元F1ドライバーの中嶋悟氏が校長を務める、鈴鹿サーキットレーシングスクールのフォーミュラクラスの第一期生として入校したのが伊藤大輔選手の本格的なレースキャリアのはじまりです。

根っからの車好き、レース好きとしても知られており、自動車インプレッションの映像作品にたびたび出演していたり、上記のスクールに入校してレーシングドライバーを目指すために3,000万円以上の借金をしてでもレース活動を続けた、スーパーGTでホンダに在籍していたころは自身の卒業校でもある鈴鹿サーキットレーシングスクールの講師を勤め、後輩の育成や指導に熱い熱意を注いだというエピソードもあります。

現在でもサーキット走行のレクチャー指導や自動車関係のテレビに出演、自動車インプレッションの映像作品などとレーシングドライバー以外の活躍も盛んに行っています。

プロフィール

生年月日:1975年11月5日生まれ
身長:176cm
体重:66kg
血液型:RH+A型
最終学歴:三重県立津工業高等学校卒業
趣味:ラジコン、ゴルフ
特技:掃除
好きなサーキット:オートポリス

レーシングドライバー伊藤大輔の参戦レースフォトギャラリー

年収は?

公式ホームページなどには年収の記載はありませんが、スーパーGTのGT500クラスで毎年コンスタントに活躍している選手である、個人スポンサーとして株式会社ダブリュ・エフ・エヌ、株式会社アライヘルメットといった数社のスポンサーが付いているということを考えますと、憶測ですが2,000万円から3,000万円程度ではないかと思われます。

伊藤大輔の愛車は?

現在スーパーGTでトヨタ陣営に所属している伊藤大輔選手は、自身の愛車もトヨタを愛用しているようです。車種はレクサス LS600hで家族のためにチャイルドシートを2つ装備した珍しい仕様に仕上がっています。優しい雰囲気にぴったりな感じがしますね。

伊藤大輔の戦績

20年以上のレースキャリアを誇る伊藤大輔選手のこれまでの戦績をご紹介します。

ミドル・フォーミュラからフォーミュラ・ニッポンまでの戦績

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鈴鹿サーキットレーシングスクールを無事卒業した伊藤大輔選手ですが、残念ながらスカラシップの選考には漏れてしまいました。そこで声を掛けてくれたのが当時スクールのメンテナンスを手掛けていたスキルスピードの社長さんです。特に進路が決まっていなかった伊藤大輔選手は社長の誘いに乗り、フォーミュラ・トヨタに参戦することになります。このフォーミュラ・トヨタではシリーズ2勝、ランキング3位という好成績を残します。

1997年からは全日本F3選手権へステップアップ、所属チームはフォーミュラ・トヨタの時と同じくスキルスピードからとなります。ここでも1勝を挙げシリーズランキングも5位という好成績を残します。翌1998年、そして1999年もスキルスピードから全日本F3選手権に引き続き参戦します。

1998年の成績はシリーズランキング5位、そして世界的に有名な市街地レースF3マカオグランプリ(決勝14位)にも参戦を果たします。1999年はシリーズランキング7位、そして前年に引き続きF3マカオグランプリに参戦、日本人ドライバーとして史上初めての表彰台である3位入賞を果たす好成績を残します。

これらの実績を評価され、2002年には国内最高峰のフォーミュラカテゴリーである全日本選手権フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)へステップアップ、当時メジャーリーガーとして活躍していた佐々木主浩氏がオーナーを務めるTEAM22から参戦することになります。

しかしチームもドライバーも参戦初年度ということもあり、苦戦を強いられる結果になります。全戦完走を果たしましたが成績は振るわず、第5戦のツインリンクもてぎと第7戦富士スピードウェイ、そして最終戦の鈴鹿サーキットでの8位が最高順位となりシーズンを通してポイントを獲得することができませんでした。結果1年参戦しただけでシートを失ってしまうことになります。

スーパーGT選手権での戦績(1999年から2007年まで)

出典:http://supergt.net/archive/classic/supergt.net/supergt/2007/0708/0708phot.htm

全日本F3選手権に参戦していた1999年に伊藤大輔選手は全日本GT選手権にも参戦を果たします。一ツ山レーシングから使用車両BMW M3でGT300クラスからの参戦となりました。シリーズを通して6ポイントを獲得する活躍を評価され、翌2000年にはGT500クラスにステップアップを果たします。

2000年の所属チームはナカジマレーシングで使用車両はホンダ NSXとなりました。タッグを組むのは前年に全日本GT選手権に中途参戦ながらも2勝を挙げた注目のドイツの選手、ドミニク・シュワガーでした。そして開幕戦のツインリンクもてぎではいきなりの3位入賞、そして第3戦のスポーツランドSUGOでは念願の初勝利、しかも最終戦の鈴鹿サーキットでも勝利を収め、GT500クラス初年度にしていきなり2勝を挙げる大活躍を見せました。

2001年はチーム国光へ移籍、タッグを組んだのはベテランドライバー飯田章選手です。この年は第5戦ツインリンクもてぎでの4位が最高位となり、ポイント獲得数29、シリーズランキング10位という成績を残します。翌2002年は無限へ移籍、タッグを組んだ道上龍選手が怪我のため第4戦まで欠場した際にはファーストドライバーを務めました。そして第7戦のMINEサーキットでは1年ぶりの勝利を収め、最終的なシリーズランキングも5位に躍進します。

2003年も引き続き無限から参戦、前年限りでチームを去った道上龍選手に代わり無限のファーストドライバーに抜擢されます。タッグを組んだのはフォーミュラ・ニッポンのチャンピオン獲得者トム・コロネルでした。この年のホンダは前面投影面積による車重補正規制になかなか適応できず、シーズン前半からトヨタや日産に苦戦を強いられる年となります。しかしシーズン後半には復調の兆しをみせ、伊藤大輔選手も気を吐き、第6戦ツインリンクもてぎで優勝を飾る活躍を見せました。この年のシリーズランキングは10位という成績でした。

2004年はオートバックス・レーシング・チーム・アグリ(ARTA)へ移籍、タッグメイトは金石勝智選手となります。しかしこの年は不振を極め第2戦スポーツランドSUGOでの9位が最高位となりシリーズ通算獲得ポイントはたったの2、シリーズランキングは最下位という結果に終わってしまいました。

2005年はチーム・ホンダ・レーシングからARTA NSXを駆り、ホンダのエースドライバーとして参戦することになります。タッグメイトはラルフ・ファーマン選手でした。ホンダのセミワークスチームという恵まれた体制での参戦となり、シリーズを通して好調な走りを見せました。第3戦マレーシアでの2位、第7戦オートポリスでは優勝を飾り、全日本GT選手権最後の年に悲願のシリーズタイトルへ王手をかけましたが、最終戦鈴鹿サーキットでは12位に終わってしまい、僅差でタイトルを逃してしまいます。

2006年も引き続き同じ体制で参戦、ホンダのエースドライバーの一人であった松田次生選手が日産へ移籍したこともあり、伊藤大輔選手にはホンダの日本人エースとして前年以上の期待がかけられました。シリーズ前半は開幕戦鈴鹿サーキットで3位、第4戦マレーシアでは優勝を果たすものの予想外のトラブルやアクシデントに見舞われ、後半戦は失速、68ポイントを獲得するもシリーズランキングは7位に終わり、悲願達成とはなりませんでした。

2007年はチーム・ホンダ・レーシングが解散したことにより古巣のARTAより参戦、タッグを組むラルフ・ファーマン選手とは3年連続のコンビとなります。開幕戦鈴鹿サーキットは予選ではGT500クラスのコースレコードタイム1分49秒842を記録するも決勝は12位に終わってしまいます。しかし続く第2戦岡山国際サーキットでは優勝、そして第5戦スポーツランドSUGO、第8戦オートポリスと計3勝を挙げる快進撃をみせます。結果最終戦の富士スピードウェイを迎える前に念願のシリーズチャンピオンを獲得しました。

このタイトルは伊藤大輔選手にとっては初の、そしてホンダとしても全日本GT選手権選手権以来、スーパーGTとしては初のタイトルとなり、長年ホンダと共に歩んできた伊藤大輔選手の喜びもひとしおだったといいます。また市販車ベースの耐久レース、スーパー耐久シリーズのクラス4においても2004年度にチャンピオンを獲得しています。

鈴鹿1,000km耐久レースでの活躍

2016年現在はスーパーGTのシリーズに組み込まれている鈴鹿1,000kmですが、1999年から2005年まではどのシリーズにも属さない単独レースとして行われました。伊藤大輔選手はこの鈴鹿1,000kmに2000年から毎年参戦していました。

そして伊藤大輔選手はこの鈴鹿1,000kmを得意としており、持ち前の安定した、車を大事に走らせる能力をいかんなく発揮することになります。初参戦となった2000年には脇阪寿一選手、金石勝智選手とのチームでホンダ NSXを駆り見事優勝、2001年も道上龍選手、光貞秀俊選手とのチームで前年と同じくホンダ NSXで参戦、この年は2位フィニッシュを飾ります。

2002年も道上龍選手、光貞秀俊選手にホンダ NSXと前年と同じ体制で挑み2位、2003年はトム・コロネル選手とのコンビでまたも2位を獲得、翌2004年は道上龍選手、セバスチャン・フィリップ選手とチームを組み優勝、単独レースとして最後の年となった2005年はラルフ・ファーマン選手とのコンビで出走しましたが残念ながら114周時点でリタイアとなってしまいました。

結果、単独で行われた鈴鹿1,000kmでは6回参戦して2勝、2位3回という上位の常連として活躍しました。スーパーGTとしてシリーズに組み込まれてからも度々上位入賞を果たす活躍をみせています。

スーパーGT選手権での戦績(2008年から)

出典:http://www.daisuke-ito.com/photo/14sg8.html

2008年になると長年苦楽を共にしたホンダに別れを告げ、トヨタ陣営のエース格であるチーム・ルマンへ移籍し、心機一転の活躍を誓います。タッグを組んだのはビヨン・ビルドハイム選手でした。前半戦はコンスタントな走りを見せ、前年度チャンピオンの貫禄をみせますが、後述する事故の影響により、第5戦から第8戦まで欠場となってしまいます。復帰戦となった最終戦富士スピードウェイでは見事3位表彰台を獲得しますが、獲得ポイント21、シリーズランキングは16位に終わります。

2009年は事故の影響で満足な結果を残せなかった前年の雪辱を期して挑みました。体制は前年から引き続きチーム・ルマンから、タッグメイトもビヨン・ビルドハイム選手となりました。9戦中7戦で入賞を果たす堅実な活躍をみせましたが、最高順位は最終戦ツインリンクもてぎの4位、タイトル争いを脅かすには至らず、シリーズランキング13位という成績に終わってしまいます。

トヨタに移籍後いまいち実力を発揮できないシーズンが続きましたが、2010年は前半戦から絶好調といえる走りをみせ、開幕戦鈴鹿サーキットでいきなりの2位表彰台、以降も上位入賞を重ね優勝こそありませんでしたが、一時はシリーズランキングトップを走っていました。しかし後半戦は調子が上がらず、最終戦ではチームメイトのビヨン・ビルドハイム選手が予選アタック中にピットレーンの信号無視というミスを冒してしまい、決勝レースでは20秒のピットストップペナルティを受けることになります。これが響きシリーズランキングは4位に終わってしまいます。

チーム・ルマン4年目となる2011年はタッグメイトが大嶋和也選手に代わります。スケジュール上での第2戦、実質的な開幕戦の富士スピードウェイで2位表彰台を獲得する好調な滑り出しをみせましたが、その後は成績が低迷、第5戦鈴鹿サーキットでの5位が最高位となり、シリーズランキングは11位でシーズンを終えることになります。

2012年も引き続きチーム・ルマンから、大嶋和也選手とのタッグでシーズンに挑みます。開幕戦岡山国際サーキットは13位、第2戦富士スピードウェイでは10位と2ケタ順位が続きましたが、第3戦マレーシアでは3位表彰台を獲得、続く第4戦スポーツランドSUGOではトヨタ移籍後初となる勝利を収めます。またチーム・ルマンとしても2003年以来の久々の勝利となりました。2007年度シリーズチャンピオンの復活にファンも関係者も大いに盛り上がりましたが、その後は第6戦富士スピードウェイでの10位で1ポイントを獲得するだけに終わり、ポイント獲得数33、シリーズランキング10位に終わってしまいます。

2013年はトヨタ レクサス陣営のドライバー配置転換が行われます。これに伴って2台体制となったトムスへ移籍することになります。タッグメイトはスーパーGT2年目で躍進を誓うイタリア人ドライバー、アンドレア・カルダレッリ選手となります。開幕戦の岡山国際サーキットでは15位という結果に終わってしまいましたが、残りの7戦はすべて入賞、特に第4戦スポーツランドSUGOでは2位、第6戦富士スピードウェイでは3位と表彰台を獲得する活躍をみせました。シリーズランキングは8位と上々の成績でしたが、この年上位を独占したトヨタ レクサス勢の中では6台中5位という成績に終わってしまいました。

2014年もトムスからアンドレア・カルダレッリ選手とのコンビで継続参戦、37号車を駆ることになります。この年からGT500クラスの車両規格がドイツ・ツーリングカー選手権と同一規格へと変更になり、マシンが前年のレクサス SC430からレクサス RC Fへと変更になりました。この年はシーズン当初から好調で、開幕戦岡山国際サーキットで1年ぶりとなる勝利を挙げます。その後もシーズンを通して好調で、第4戦スポーツランドSUGOでの2位表彰台を含め、ここまでの7戦すべてでシングルフィニッシュを果たす安定した活躍を見せます。

最終戦を目の前にした第7戦終了時点でトムスのもう1台であるペトロナス・トムスのジェームス・ロシター選手を3ポイント差で追いかける展開でした。7年ぶりのシリーズチャンピオンがかかった最終戦のツインリンクもてぎは13番手からのスタート、タッグを組むアンドレア・カルダレッリ選手がステアリングを握り序盤戦を戦います。抜群のスタートでいきなり9位へ順位を上げるとその後もペースよく先行集団を追走、一方のタイトル争いをしているジェームス・ロシター選手の36号車、ペトロナス・トムスはスタートの混乱で後続から接触され車両前半部分にダメージを追ってしまいます。これによってペースを上げられない36号車はなんとか4位を死守するも、先頭集団からは差をつけられる形になってしまいます。

レースが動いたのは8周目、バックマーカーをうまく利用したアンドレア・ガルダレッリ選手は19号車とタイトル争いをしている36号車をまとめてパス、見事4位に浮上、シリーズタイトルへ大きな一歩を踏み出しました。その後21周目にピットインし伊藤大輔選手へバトンタッチ、38周目には2位まで浮上する走りをみせます。その後懸命に追走しますが結局2位でフィニッシュ、日産の23号車がそのまま優勝というレース結果に終わりました。結果チャンピオンはこのレースを勝った松田次生選手に決定し、伊藤大輔選手は惜しくもシリーズチャンピオンは逃しましたが、首位から2ポイント差のシリーズランキング2位という上々の成績を残しました。

2015年は中嶋一貴選手が世界耐久選手権に専念することになり、レクサス陣営のドライバー再編成が行われます。伊藤大輔選手は前年の活躍が評価され、トムスのエース格となるカーナンバー36号車ペトロナス・トムスへ移籍することになります。タッグメイトは前年激しいチャンピオン争いを行ったジェームス・ロシター選手でした。今年度こそトヨタ移籍後初のシリーズチャンピオンを目指すという気迫の走りを見せます。第2戦富士スピードウェイでの3位、第5戦鈴鹿サーキットでの優勝と表彰台にも2度上る活躍を見せましたがシリーズランキング7位という結果に終わります。

2016年はトムスから引き続き36号車を駆ってGT500クラスに参戦しています。メインスポンサーがペトロナスからauに代わり、カラーリングも大幅に変更されています。タッグメイトは新加入したニック・キャシディ選手で、第4戦終了時点で獲得ポイント数17、シリーズランキング7位という成績です。

伊藤大輔の事故とは?

伊藤大輔選手の大事故が起こったのは、土屋圭一氏が司会を務めるビデオマガジン、ホットバージョンの峠最強伝説というコーナーの撮影中だったという噂です。場所は群馬県にある群馬サイクルスポーツセンターというサーキットで、和製ニュルブルクリンクという呼び名があるほど、道幅が狭くコーナーの見通しも悪い難関コースです。

この撮影に挑んだ時の伊藤大輔選手はセッティング作業中で、作業の効率化を図るためにヘルメットを着用せずにコースを走行してしまいました。コントロールを失ったマシンはコーナーの場所は不明ですがコース脇の立ち木に激突してしまう大事故を起こしてしまいます。右頭部頭蓋骨を骨折、右頭部裂傷、左頭部脳挫傷という大怪我で一時は意識不明の重体にまで陥ってしまいました。事故の詳細な原因は不明ですが、スピードの出しすぎではなく、マシントラブルによる事故だったという説が有力です。

スーパーGTシーズン中の事故であり、全治2か月とは言われていたものの、頭部へのダメージが大きかったため復帰を心配する声もあがりましたが、持ち前の体力と精神力でわずか1か月足らずでレースに復帰、しかも復帰戦のスーパーGT最終戦富士スピードウェイでは3位表彰台を獲得する活躍を見せました。また2009年2月7日発売のホットバージョンVol.97では伊藤大輔復活という特集も組まれました。

群馬サイクルスポーツセンターがどれほどの難コースなのか、土屋圭一氏が全開でアタックした以下の動画をご覧ください。

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まとめ

ふとしたきっかけからモータースポーツに興味を持ち、そしてふいに声を掛けられて参戦したフォーミュラ・トヨタで大活躍、F3マカオGPでの日本人として初めての快挙とキャリア前半から目覚ましい活躍をしてきた伊藤大輔選手。全日本GT選手権に参戦してからは毎年コンスタントに上位争いを繰り広げる息の長い活躍を見せてくれています。

そしてサーキットで争うドライバーで20年以上も第一線で活躍し、そして年齢を重ねるごとにテクニックは磨かれ、いぶし銀の輝きをサーキットに放つ存在となっています。いまやスーパーGTの顔といっても過言ではない伊藤大輔選手の今後の一層の活躍が期待されます。