キミ・ライコネン 最年長F1ドライバーになったアイスマンの年収や戦績まとめ

現役F1最年長ドライバーとなるキミライコネン。F1デビューは2001年ですが、このデビューがセンセーショナルでした。フォーミュラ・ルノーの経験だけでF3をスキップしてのF1デビューだったのです。回りからはいろいろと言われましたが、本人はそんなものはどこ吹く風という感じ。開幕戦を6位入賞で飾り、みなを「あっ」と言わせました。そんな風雲児キミライコネンの内側を覗いてみましょう。

キミライコネンの人物像

キミライコネンはフィンランド出身、1979年10月17日生まれの36歳。現役最年長F1ドライバーで、2016シーズンはフェラーリのマシンをドライブしています。常にクールで無口な性格からついたニックネームは“アイスマン”です。
また、他のF1ドライバーとの交流が無く、群れを嫌い孤独を愛する姿から“北欧のシルバーウルフ”とも呼ばれます。2007年から3年間フェラーリでチームメイトだったフェリペ・マッサは、「キミとはうまくやれたと思うけど、何というか、友情はおろか人と人の関係が皆無だったよ。彼は自分の世界に引きこもって、他人のことにまるで関心を示さないんだ」と振り返っています。

プロフィール

身長:175cm
体重:71kg
血液型:A型
さすがはアイスマンと呼ばれる男、口癖は「興味ないね」、「僕には関係ない」です。不確定な要素について話すときには「様子を見てみよう」と発言します。ちなみに“アイスマン”の称号は、2002年にマクラーレンに移籍した時、チーム代表のロン・デニスによって命名されました。

ドライバーとしての資質

2012年シーズン復帰前に「ライコネンは車の開発が苦手」という噂が流れました。ですが、ロータスのエンジニアを務める小松礼雄氏によれば、「多くは語らないが必要な事を的確に言ってくれる。フィードバックは常に冷静。ライコネンが言った事をやれば必ず結果につなげてくる」と述べています。
フェラーリに在籍していた浜島裕英氏も「勝つために実にいいことを指摘してくれる」と語るなど、エンジニアの間でライコネンのフィードバックは確実で評価が高いと言われています。

頑固者?

メディアのインタビューに対しても口数が少なく、英語の滑舌があまり良くないことから「記者泣かせ」との噂も。母親のパウラ曰く、「小さいうちから常に自分のやり方を貫き、いったん決意したら誰もそれを変えることはできない」とのことです。

趣味・嗜好

現代のF1ドライバーとしてはとても珍しく喫煙者です。ライコネンが喫煙する画像が何度かインターネット上に流出していました。
大の酒好きとしても知られています。表彰台上で行われるシャンパンファイトでは、シャンパンを先に一口飲んでから参加します。奇跡的な大逆転でワールドチャンピオンを勝ち取った2007年最終戦ブラジルグランプリでは、表彰台に上がった途端にシャンパンを口にしました。
宗教上の理由でシャンパンではなくローズウォーターを使用するバーレーングランプリでは、一口含んだ後すぐにボトルを渡してしまったそうです。

ユーモア

2007年シーズンの開幕前に地元フィンランドで行われたスノーモービルのレースに「ジェームス・ハント」を名乗って出走、優勝しました。2009年シーズン開幕前にもスノーモービルレースで優勝しています。
2012年のモナコグランプリでは、ジェームス・ハント仕様のヘルメットを使用しています。翌2013年にはジェームス・ハントをデザインしたヘルメットを使用しました。

年収は?

ライコネンは、レーシング界で最高年収のドライバーです。フォーブス誌の最新スポーツ選手長者番付によれば、NBAのマイケル・ジョーダンとコービー・ブライアントに並びゴルフのタイガー・ウッズの1億1,000万ドル(およそ112億2千万円)に次ぐ世界第2位の高額所得者にランクインしています。
キミ・ライコネン、マイケル・ジョーダン、コービー・ブライアントの3人は、年俸、スポンサーシップ、その他の収入を含めて年間約4,500万ドル(およそ46億円)を稼いでいるそうです。

ライコネンは、サッカー選手のデビッド・ベッカム(4,200万ドル、およそ42億8千万円)よりも上位にランクインしています。ちなみにモータースポーツ界の2位は、MotoGPのバレンティーノ・ロッシで3,500万ドル(およそ35億7千万円)でした。
昨シーズンワールドチャンピオンのルイス・ハミルトンは、3,200万ドル(およそ32億6千万円)で13位にランクインしています。

戦績

F1以前

初めてのモータースポーツは5歳の時。兄のお下がりのモトクロスバイクを乗り始めました。8歳になって、兄と一緒にカートを始めます。12歳からカートレースに参戦し、1999年までに数々のタイトルを獲得しています。
1999年からフォーミュラ・フォードユーロカップに参戦しますが、資金難のために数戦で取りやめてしまいます。同時期に参戦したフォーミュラ・ルノーのイギリス選手権ウィンターシリーズでは、マノー・チームのシートを手に入れて4戦4勝、翌2000年のレギュラーシーズンでは10戦中7勝、2位1回、3位2回(つまりすべて表彰台!)という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得しました。
フォーミュラ・ルノーでの成績に注目したペーター・ザウバーにテストに招かれ、ヘレス・サーキット、カタロニア・サーキットでザウバーのF1カーをドライブ。F3の経験もなくF1のテストをしたのですが、テストの後のインタビューでは「F1の運転はすごく簡単だった。フォーミュラ・ルノーに戻るより簡単だ」と語っています。ペーター・ザウバーはこのテスト結果に、「テレメトリーを見てみるとキミはF1マシンを楽々ドライブしている。まるでクルマの中から生まれて来たみたいだよ!」と語ったそうです。こうしてF1のレギュラードライバーの座を手に入れました。

F1でのキャリア

ザウバー時代 2001年

F3の経験無し、フォーミュラレース経験も23戦のみでF1に参戦することについて、他の関係者から批判が相次ぎました。それ故、ライコネンのスーパーライセンスは4戦限定の仮ライセンスであり、時期尚早と見なされれば取り消される可能性もありました。
そんな不安をよそに、デビュー戦オーストラリアグランプリでいきなり6位入賞、正式にスーパーライセンスが発給されたのです。第6戦オーストリアグランプリ、第8戦カナダグランプリのどちらも4位入賞、全17戦中4戦で入賞を果たし9ポイントを獲得しました。初参戦ながらドライバーズランキングも10位を獲得したのです。
チームメイトのニック・ハイドフェルドは国際F3000チャンピオン経験者ですが、予選、決勝ともにほぼ互角の成績でした。レース中のラップタイムや最速タイムは、ハイドフェルドを完全に凌いでいました。

マクラーレン時代 2002年

そんなザウバーでの活躍は、すぐに他のチーム関係者に伝わりました。当時ザウバーにエンジンを供給していたフェラーリからも注目され、2002年はフェラーリに移籍する可能性も囁かれました。ですがいち早くアプローチしたマクラーレン・メルセデスが、同郷ミカ・ハッキネンの後任としてライコネンを抜擢しました。

開幕戦オーストラリアグランプリでは、自身初となるファステストラップを記録するだけでなく、3位に入賞して初表彰台を獲得しました。年間で4回表彰台に上り、24ポイントを獲得したのです。リタイアも10回と多いのですが、キミのミスによるものは1度だけで、残りは全てマシントラブルによるものでした。
この年の1番のレースは第11戦フランスグランプリです。残り6周時点で首位を走行し初優勝が期待されていましたが、周回遅れのアラン・マクニッシュが撒いたオイルに乗ってスリップし、ミハエル・シューマッハにオーバーテイクされて2位に終わっています。

マクラーレン時代 2003年

マクラーレンチームの新車開発が遅れたことから、前年マシンの改良型『MP4-17D』でスタートしました。それでも、第2戦マレーシアグランプリで初優勝を獲得します。第9戦ヨーロッパグランプリでは初のポールポジションを獲得、第15戦アメリカグランプリでも2回目のポールポジションを記録しています。優勝こそ1回のみでしたが、安定してポイントを積み上げたことから最終戦までミハエル・シューマッハとタイトル争いを演じました。最終的に2点差で敗れはしたものの、ドライバーズポイントランキングで2位を獲得しています。

マクラーレン時代 2004年

開幕戦からニューモデル「MP4-19」を投入しましたが、競争力に乏しく信頼性にも欠けていました。何度もマシントラブルに見舞われ7戦中4回のリタイア、獲得したポイントは第4戦サンマリノグランプリで8位入賞による1ポイントのみでした。
第8戦カナダグランプリで5回ピットストップをしながらも5位入賞、第9戦アメリカグランプリでも6位を獲得し、シーズンの中盤になって調子が上向きになりました。第10戦フランスグランプリで改良型「MP4-19B」を投入、第11戦イギリスグランプリの予選ではシーズン初のポールポジションを獲得し、決勝ではこの年初の表彰台となる2位を獲得しました。後第13戦ベルギーグランプリで優勝を獲得しました。
F1以外のレース活動として、自身のマネージャーであるスティーブ・ロバートソンとライコネン・ロバートソン・レーシング(ダブルRレーシング)を設立、翌年からイギリスF3選手権参戦を発表しています。

マクラーレン時代 2005年

開幕からニューモデル「MP4-20」の信頼性不足が露呈しましたが、第4戦サンマリノグランプリから3戦連続ポールポジションを獲得、第5戦スペイングランプリと第6戦モナコグランプリでポール・トゥ・ウィンを達成してチャンピオン争いに絡んでいきます。第7戦ヨーロッパグランプリで、首位で迎えたファイナルラップにサスペンション破損でリタイアしてしまい、フェルナンド・アロンソに優勝を渡してしまいました。
第18戦日本グランプリはドラマティックで、予選のタイムアタック直前に雨が降り出し17位スタートとなりますが、決勝レースオープニングラップで12番手まで順位を上げ、20周目には7番手までポジションアップしました。38周目のジャンカルロ・フィジケラと、41周目のジェンソン・バトンのピットストップによって首位に立つも自身もピットインによってジャンカルロ・フィジケラに首位を明け渡します。ここから1秒以上速いペースで追い上げ、ファイナルラップの1コーナーでフィジケラをアウトからオーバーテイクして優勝したのです。
記者会見では「今日のレースは間違いなく僕のベストレースに入るだろうね」と語っています。5回のポールポジション、10回のファステストラップ、7回の優勝などの活躍を見せますが一歩及ばず、ランキング2位でシーズンを終えました。

マクラーレン時代 2006年

ドライバーズチャンピオン獲得が期待されましたが、この年のマシン「MP4-21」も様々なトラブルに見舞われてノーポイントで終えたレースが目立ちます。開幕戦バーレーンGPでは予選でマシンが壊れて最後尾スタートになりましたが、怒濤の追い上げで3位表彰台を獲得しました。ライバルを追いかけまわすレースもありましたが、予選で3度のポールポジションを獲得するもマシントラブルやミス、ライバルに戦略で逆転されるなどいずれも優勝とはならず、この年は未勝利でした。ドライバーズランキングは5位です。
第15戦イタリアグランプリ終了後、引退するミハエル・シューマッハの後任としてフェラーリへの移籍が発表されました。ライコネン・ロバートソン・レーシングは、イギリスF3選手権で初めてドライバーズチャンピオンを獲得しました。

フェラーリ時代 2007年

開幕戦オーストラリアグランプリで、ポールポジション・ファステストラップ・優勝を獲得するハットトリックを達成しました。開幕戦から3戦連続で表彰台に上りましたが、第4戦スペイングランプリではマシントラブルによりリタイヤしています。第6戦カナダグランプリ、第7戦アメリカグランプリではマクラーレンの連勝を許し、ランキング首位のルイス・ハミルトンとのポイント差は26でした。
第8戦フランスグランプリ、第9戦イギリスグランプリを連勝してポイントを挽回、第14戦ベルギーグランプリではポールトゥーウィンを果たし、スパ・フランコルシャン3連覇を記録しました。残り2戦で、ハミルトンとの得点差は17ポイント、ライコネンのタイトル獲得の夢は風前の灯火でした。
第16戦中国グランプリでハミルトンがリタイア、自身が優勝したことでかろうじて望みは繋がっていました。最終戦ブラジルグランプリでは予選3位から優勝、ハミルトンが7位、アロンソが3位に終わったことでランキング3位からドライバーズチャンピオンを獲得しました。最大26ポイント差を跳ね返した、F1史上最大の逆転劇でした。
1位ライコネン110ポイント、2位ハミルトンと3位アロンソが109ポイントで、1位から3位までの得点差が1ポイントという史上初の接戦となり、シーズン最終戦まで三つ巴の争いが続くという、F1史上でも稀に見る激戦を勝ち抜いたシーズンでした。

フェラーリ時代 2008年

第2戦マレーシアグランプリで初優勝を飾ると、第4戦スペイングランプリでは自身2度目のハットトリックを決めましたが、この勝利がシーズン最後の勝利になります。第6戦モナコグランプリは散々で、様々なミスから後方での戦いを余儀なくされ、19番手からジャンプアップして5位を走行していたフォース・インディアのエイドリアン・スーティルに追突しリタイアに追い込んでいます。第7戦カナダグランプリでは、ピットレーン出口でレッドシグナル停止中にハミルトンに追突されリタイアしています。更に第8戦フランスグランプリでは、首位を快走しながらエキゾーストの破損によってペースが下がり、2位に終わっています。
第12戦ヨーロッパグランプリから第15戦シンガポールグランプリまで4戦連続ノーポイントで、日本グランプリを終えた時点でタイトル防衛の可能性は消滅していました。第17戦中国グランプリではハミルトンとタイトル争いをしていたチームメイト、フェリペ・マッサを先行させ、最終戦ブラジルグランプリでもチームプレーに徹し、2年連続のコンストラクターズタイトルに貢献しました。ドライバーズタイトルは3位でシーズンを終えました。

フェラーリ時代 2009年

新レギュレーションに合わせて開発されたF60の競争力は低く、開幕から3戦ノーポイントでした。第4戦バーレーングランプリでシーズン初ポイントを獲得、第6戦モナコグランプリで3位とようやくシーズン初表彰台を獲得しました。
第12戦ベルギーグランプリでは、セーフティーカー導入後の再スタート時にKERSを使用して首位を奪い、フェラーリにとってシーズン初、ライコネンにとって2008年スペイングランプリ以来約1年4か月ぶりの勝利を挙げました。

F1と並行参戦 2009年

フェラーリでF1に参戦しながら、プライベーターとしてトミ・マキネン・レーシングからフィアット・グランデプント・アバルトS2000でラリーにも参戦しました。2009年シーズン前にフィンランドで行われた北極圏ラップランド・ラリーに出場し、初出場で13位を記録しました。さらにヴァークナ・ラリーで17位。F1がシーズンに入ってからは、イタリアで開催されたデラ・マルカに参戦しましたがクラッシュによりリタイアしています。第10戦ハンガリーグランプリを2位表彰台で終えた後、母国で開催されたWRC第9戦ラリー・フィンランドにスポット参戦しましたが、クラッシュによりリタイアしました。

WRCに転向

フェラーリは2010年シーズンにフェルナンド・アロンソを迎えることになり、多額の違約金を払ってライコネンとの契約を解除しました。ライコネンはマクラーレンと契約交渉を行ったがまとまらず、マクラーレンはジェンソン・バトンを迎えます。レッドブル・レーシングやトヨタF1との交渉もありましたが、ライコネンのマネージャー、スティーブ・ロバートソンは「F1での選択肢はマクラーレンだけだった」と語り、他チームからのF1参戦の可能性はなかったことを明らかにしています。ただ「メルセデスはキミと契約したがっていたが、その時にはすでにWRCに行くことを決めてしまっていた。キミの決心は変わっていない」と語り、メルセデスからのオファーは手遅れだったことを明らかにしています。
2009年12月4日、シトロエン・ジュニアチームから世界ラリー選手権(WRC)に参戦することを発表しました。

シトロエン ジュニアチーム 2010年

シトロエン・ジュニアチームと、ニュージーランドを除くWRC全戦に出場する契約を結びました。ドライブするのはシトロエンC4 WRCの2009年仕様です。WRC初戦の前にテストも兼ねて北極圏ラップランド・ラリーに参戦しました。初日にクラッシュするも2日目には再出走し、上々のタイムを記録しました。
第1戦ラリー・スウェーデンは、慣れないスノーラリーで苦戦しながらもWRCで初完走を果たします。第3戦ヨルダン・ラリーでは8位に入り初ポイントを獲得しました。カルロス・ロイテマン以来のF1とWRCでポイントを獲得したドライバーになりました。ラリー・ポルトガルの後、次戦ラリー・ブルガリアのターマックラリーに備えたテストとして、ラリー・ランテルナ(イタリアのローカルラリー)に出場しました。一時はトップを走りますが、タイヤ選択ミスにより最終SSで抜かれて2位で終わりました。ラリー・ドイチュラントの市街地で行われた最終SS(SS19)で、初のWRCステージ優勝を果たしました。ラリー・ジャパンの後、ターマックラリーであるラリー・ヴォージュ(Rallye Vosgien)に出場し、全てのステージでトップタイムを記録して初優勝を遂げました。ラリー・カタルーニャではシェイクダウンでクラッシュし、スタートまでに修理不可能だった為にリタイアしました。ウェールズ・ラリーGBでは難しいラリーを走りきり、WRC最終戦をポイント獲得で飾っています。

ICE 1 Racing 2011年

シトロエン・ジュニアチームが解散したため、自身のチーム「ICE 1 Racing」を立ち上げました。マニュファクチャラーチームとしてエントリーしましたが、全戦には参戦せずヨーロッパで開催されるラリー9戦のみの参戦でした。
第1戦ラリー・スウェーデンは8位でポイントを獲得、第4戦ヨルダンは6位入賞、第7戦アクロポリスからの3戦でポイントを獲得しました。オーストラリアに参加しなかったために、ヨーロッパ外の2戦参加義務を満たすことが出来ず、チーム自体は失格処分になりました。残りの3戦はすべてリタイアしています。

その他のモータースポーツ

NASCAR参戦

2011年にはNASCARへスポット参戦しています。キャンピング・ワールド・トラック・シリーズに Kyle Busch Motorsportsから1戦のみ参戦しました。マシンはトヨタ タンドラで、第7戦シャーロット・モーター・スピードウェイの予選を31位で通過、決勝を15位で完走しました。
ネイションワイド・シリーズにも1戦だけ参加しました。第13戦にKyle Busch Motorsportsが用意したNEMCO Motorsportsのトヨタ カムリで出場して、予選22位、決勝は一時15位まで順位を上げたもののトラブルのため順位を下げ27位でした。

プロトタイプカーに挑戦

2011年8月にプジョー908のテストを行い、初めてプロトタイプカーをドライブしました。ル・マン24時間レースや耐久シリーズへの参戦も噂されましたが、残念ながら実現しませんでした。

F1へ復帰

2010年秋、ロータス・ルノーGPから接触があり同チームから復帰するという噂がありましたが、チーム側からの一方的なアプローチだったことから“真剣に検討できない”とライコネンは復帰を否定していました。
2011年秋、ウィリアムズのファクトリーをライコネンが訪問し、交渉が行われていましたがまとまりませんでした。アブダビグランプリ直前、ロータス・ルノーGPと交渉を開始するとすぐにまとまり、ロータス・ルノーGPからF1に復帰することが公式に発表されました。
復帰の理由について「NASCARに出て以来、他のドライバーとバトルをしたいという気持ちがどんどん強くなっていった。ラリーは時計との戦いだからね」と語っています。2010年に現役復帰したミハエル・シューマッハの苦戦から、ブランクがあるライコネンには多くを期待できないという意見もありました。

ロータス時代 2012年

開幕戦オーストラリアグランプリは、ミスにより予選Q1で敗退してしまいましたが、決勝は7位入賞しました。バーレーングランプリではトップのベッテルに迫る勢いで、復帰後初表彰台となる2位を獲得しました。ハンガリーグランプリでもトップのハミルトンを追い上げましたが、抜くことはできませんでした。その後は5位以下で完走するレース展開で、シーズン前半ほどのペースが発揮できませんでした。パワーステアリングの感触が合わないという問題が解決できないでいました。
アブダビグランプリは、4番グリッドから好スタートを決めて1コーナーで2位、20周目にハミルトンがリタイアしてからはトップを守り続け復帰後初優勝を飾っています。
全レースを完走し、F1史上8人目の年間決勝全戦完走達成者になりました。中国グランプリを除くすべてのグランプリで入賞しています。表彰台は7回、最終戦までチャンピオンを争っていたベッテルとアロンソに次いでランキング3位でシーズンを終えました。

ロータス時代 2013年

開幕戦オーストラリアグランプリを勝利しましたが、その後は2位が6回で勝利はありません。来季に向けた移籍交渉が話題になり、当初はレッドブル入りが噂されましたが、古巣フェラーリへの移籍が決定しました。良好だったロータスとの関係は微妙になり、チームの報酬未払いを暴露したり公式会見を欠場したりしました。シンガポールグランプリで再発した古傷の背中の痛みを我慢しながらレースを続けましたが、終盤2戦を欠場して手術することを選択しています。

フェラーリとの復縁

アロンソとのタッグ 2014年

出典:http://formula1.ferrari.com/en/ferrari-f14-t-2/

2014年はフェルナンド・アロンソがチームメイトでした。フェラーリで2人のF1ワールドチャンピオンが組むのは、1953年のアルベルト・アスカリとジュゼッペ・ファリーナ以来です。
レギュレーション大変革が行われたこのシーズンは、フェラーリF14Tのポテンシャル不足に自身の不振が重なり、アロンソに大きく差をつけられる結果になってしまいました。最高位はベルギーグランプリの4位、総合ランキング12位と低迷しました。

ベッテルとのタッグ 2015年

チームメイトだったアロンソがマクラーレン・ホンダに移籍し、レッドブル・レーシングからやってきたセバスチャン・ベッテルがチームメイトになりました。マシンは去年より格段に良くなっていて、上位争いができる体制が整いました。ですが開幕戦オーストラリアグランプリでは、5番グリッドからスタートしながら1周目でクラッシュに巻き込まれてしまいます。ダメージを負ったまま走行しますが、結局リタイアします。第2戦マレーシアグランプリでは、遅いマシンに引っかかり予選Q2で敗退、決勝レースも序盤に接触して後退、追い上げを見せたものの4位に終わっています。中国グランプリでは、3位のベッテルを追い詰めながら最後にセーフティーカーが入り表彰台を逃しました。バーレーングランプリはフリー走行から好調で、決勝レースでもファステストラップを出してメルセデスの2台を追い上げ、2年ぶりの表彰台を獲得しました。
その後は予選から結果を出すことができず、3位表彰台は確実と思われたカナダGPでもピットストップ後に突如スピンを喫し4位フィニッシュに終わります。オーストリアグランプリでは、チームの作戦ミスによって予選Q1で敗退、決勝もアロンソとクラッシュ・大破してリタイアしました。ミスやトラブルでポイントを稼ぐことができず、チームメイトに大きく遅れを取る展開になりました。
前半10戦を終えてベッテルが2勝・160ポイントを獲得したのに対し、バーレーングランプリで2位表彰台へ1回登ったのみで76ポイントと大きく水を開けられました。イタリアグランプリでは、エンジンストールによる最後尾スタートながらなんとか5位へ浮上しました。
このような状況から、チーム代表のマウリツィオ・アリバベーネが「残留のためには結果が必要だ」と述べ、ライコネンに対してプレッシャーを掛けています。何度もライコネンの去就に関するニュースが流れ 、さらには後任に関する噂まで流れる始末でした。同じフィンランド人の若手バルテリ・ボッタス やニコ・ヒュルケンベルグ 、ダニエル・リカルドなどの名前が挙がっていました。ベルギーグランプリを前にライコネンの残留が発表され、2016年もライコネンとベッテルのコンビで戦うことが決定しました。
来年のシートは確保できましたが、ロシアグランプリでは最終ラップでボッタスと接触して5位でチェッカーを受けるもペナルティを受けて8位に終わりました。最終戦アブダビグランプリでは3位表彰台を獲得し、メルセデスの2人、チームメイトのベッテルに次ぐ4位でシーズンを終えました。

2016年シーズン

開幕戦はリタイヤに終わりましたが、相性の良いバーレーングランプリでは表彰台に上がりコンスタントにポイントを積み重ねます。“メルセデス絶対有利”という事前の予想を覆して好調が続いています。スペイングランプリでは、優勝したマックス・フェルスタッペンとライコネンの年齢差が18歳ということが話題になりました。優勝こそありませんが、何かとミスの多いベッテルよりも優位に立っています。

ライコネンは結婚しているの?

2004年に元ミス・スカンジナビアのモデル、ジェンニ・ダールマンと結婚しましたが、2013年にはフィンランドのタブロイド紙に離婚報道が掲載されました。その後正式に離婚しています。2015年にはファッションモデル、ミント・ビルタネンとの間に長男ロビンが生まれています。現在挙式に向けて準備中と言われ、国際映像でも頻繁に映されています。

まとめ

F1現役最年長ドライバーのキミライコネン。アイスマンと呼ばれながらも、実は熱く燃えています。でなければ14シーズンもF1に参戦することはできないでしょう。北欧のシルバーウルフとも呼ばれるベテランドライバーは、今シーズンも走り続けています。
先日、2017年もフェラーリで走ることが決まりましたね。どこまで走り続けてくれるか、楽しみです。

以下に2016年オーストリアグランプリまでの戦績をまとめておきます。
出走回数:241回(240スタート)
タイトル:1回(2007)
優勝回数:20回
表彰台(3位以内)回数:84回
通算獲得ポイント :1,270ポイント
ポールポジション :16回
ファステストラップ:42回