【皇帝ミハエル・シューマッハ】歴代最高の戦績、英雄か悪党か?年収や豪邸から悲劇のスキー事故まで!

1991~2006年でほとんどの記録を作り上げたF1ドライバー。2010年から復帰した3年間では戦績を残せていません。91勝、ポールポディション69回、年間ドライバーズ・タイトル7回など、歴代最高の戦績です。その一方で露骨な接触事故、というより体当たりで「ミハエルを抜くのは危険」と言わしめていました。また露骨なNo.1ドライバー体制で、チームオーダーによる優勝を重ねるなど多くの批判を招きました。

ミハエル・シューマッハのプロフィール

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1969年生まれ

シューマッハは恵まれた家庭に生まれたのではありません。彼がカートに夢中になったのを見て、安全を考えた父親がカート場に連れて行ったことから、父親がコース管理人をするようになり、彼もレーサーとしての道が開けたようです。
たまたまその道の才能に優れていたことで努力を重ね、勝つことに執着する性格も彼に味方して、史上最高の戦績を残すこととなったと理解すべき人生のように見えます。

2015年日本グランプリで若くして事故死したジュール・ビアンキは、父親が所有するカート競技場にシューマッハが現れたときシューマッハに出会い、彼にあこがれてF1の世界に入っていったと言われています。やはりレーサーの登竜門として、カート場は最重要と思われる場所のようです。
鈴鹿サーキットでのジュール・ビアンキの死は、アイルトン・セナの死から、F1として21年ぶりの死亡事故でもあります。

1991年ジョーダンからベネトン

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シューマッハは、カート、F3などを経験して、1990年メルセデス・ジュニアチームで見出されました。1991年にはルマン24時間レースなどスポーツカーレースでの好走を認められ、ベネトンチームに呼ばれる経過となっています。はじめはメルセデスの後押しでジョーダンチームに入ったのですが、ベネトンがメルセデスと話し合い、ベネトンに移籍しました。この辺の経緯では、才能が基本ではあるものの、FOCAなどの政治的な駆け引きが大きな力を持っていることなど、その後のシューマッハの言動に大きく影響を及ぼしたものと推察できます。
シューマッハは苦労人ですが、そのことが影響して政治的駆け引きにも秀で、後の成功を生んでいるものと思えます。

1992年ベネトンからフル参戦

これがシューマッハの実質的F1の経歴の始まりと呼べるものになっています。才能はすぐに開花して、第12戦ベルギーGPで初優勝を飾り頭角を現し始めていました。
この年フランスGPでセナに追突し、再スタートのグリッドでセナに叱られる姿があります。その後、幾度かのトラブルが2人の間でありましたが、シューマッハはセナを徐々に尊敬していったようで、自分が決めた特定の人物に忠誠である、この心のありようがシューマッハの本質であるのでしょうか?

1994年アイルトン・セナとの別れから初のチャンピオン

この年、サンマリノGPでセナの事故を間近で見たシューマッハは、その後、人が変わったようにチャンピオンを目指しました。トラブル続きではありましたが、ついチャンピオンとなりました。最終戦でのデイモン・ヒルとの接触事故は物議をかもし、シューマッハのセナの事故に関する理解について、疑問符がついてしまいます。
シューマッハは、セナの事故後、「チャンピオンとなってセナに捧げることを誓っていた」と語っています。
しかし、事故死に至るF1パイロットの安全性の問題を、セナの事故から学び取ろうとするところはありません。考え方が単純で、タイトルを目指す自身の視野から見ており、稚拙ともいえるセナの事故に関する理解は、責任ある大人とは見えません。

当時のビデオを見ると、最初に単独コースアウトした時点でシューマッハのマシンはダメージを受けており、ステアリング操作に問題を抱えていることが判る。そのままレースを継続することは不可能と考えられ、ヒルをブロックする正当な理由は見あたらない。またシューマッハのヘルメットの動きから視線を追うと、後方からオーバーテイクを試みるヒルのマシンの動作を認識していることが確認出来る。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。

出典:ja.wikipedia.org

1995年、年間最多優勝

この年、ミハエル・シューマッハとしてベネトンの最終年度となるのですが、年間最多記録を更新しチャンピオンとなっています。
しかし、なぜかベネトンを去る決定を下し、低迷の続くフェラーリへの移籍を選びます。

1996~2006年フェラーリ

シューマッハは、低迷するフェラーリチームをかつての常勝チームに返り咲かせて、2006年に引退します。この間数々の記録を塗り替え、名実ともにF1の「チャンピオンの中のチャンピオン」と言える戦績を残しています。
ジャン・トッドと共にフェラーリ再建に貢献したその手腕がシューマッハの才能であり、本質を語っていると言えるでしょう。

2007年~2009年フェラーリ・アドバイザー

シューマッハは引退した後も、フェラーリのアドバイザー職にとどまり、ジョン・トッドの手助けをしています。しかし、ホンダ・バイクに乗ってレースに参加するなど、現役レーサーへの思いを断ち切れていない様子が見て取れます。
フェラーリのテストドライブなどでも高ラップタイムを残しており、2009年フェリペ・マッサの事故欠場の代役として復帰が発表されたときには話題となりました。

2010年~2012年メルセデスから現役復帰

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F

この現役復帰には、世のひんしゅくを買ってしまいました。成績は上がらず、クビになっても仕方のない状況にまで至っていました。メルセデスから参戦したのですが、タイトルはおろか優勝もなく、表彰台も3位がやっとでありました。
なぜ復帰したのか疑問ですが、シューマッハ自身は後悔はしていないようでした。

現在は68億円余りのスイスの豪邸に暮らしていると見られています。近くにはレマン湖があり、周辺には、フライングスコットと呼ばれた元F1ワールドチャンピオン・ジャッキー・スチュワートのほかデビッドボウイ、ロジャー・ムーアなど、多くの有名人が暮らしています。
敷地内にコレクション用のガレージ、ガソリンスタンドも整い、映写室、プールなどの設備が整っているようです。さらにはヘリポート、クルーザー用の桟橋などもあり、税金が免除に近い水準であり、セレブが暮らすには環境が整っているのでしょう。
この豪邸に健康のまま家族と暮らせたのなら、シューマッハの人生は完成できたのでしょうが、レースの事故ではなくスキー中の事故で療養せざるを得ないシューマッハの運命を、神様が演出したのかは感慨深いものがあります。

セナの死とシューマッハの無謀なドライビング

1991年ベネトンからデビューを果たすと、1992年フランス・グランプリ(GP)でセナに追突して、グリッドでセナに怒られている姿がありました。レース後もセナに何やら説教されている様子がテレビ中継でも見られて、しばらくは険悪な2人の関係が続いていました。その後、シューマッハはセナに傾倒していったようで、セナに対しては尊敬の念を持っていたようです。
1994年サンマリノGPでセナの直後を追いかけていたところ、タンブレロ・コーナーでセナが飛び出して激突死するのを目撃することになります。レース後、トレーラーハウスに引きこもったシューマッハは、恋人と泣き続けたと言います。その後、シューマッハのドライブは明らかに変わったのですが、「勝つために必要なことをやるのに、何が悪い」と数々の危険な行為を繰り返すこととなります。

シューマッハは危険な行為を繰り返しては優勝争いを制してきましたが、相手のドライバーに謝罪することがあっても、その実、反省することはありませんでした。「2度とセナのような事故を起こさないように」と考えるのが一般的な受け止め方ですが、シューマッハは、自身の言動を改めようとはしませんでした。セナの死に涙したのは何を意味していたのでしょうか? 勝つためにストイックなミハエル・シューマッハの本質であろうと感じてしまいます。

ミハエル・シューマッハの危険なレースの数々

セナとの比較で見えるシューマッハの特徴

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F

セナもそうだったのですが、雨のコンディションとなると目覚ましく早くなるのが天才中の天才ドライバーです。セナは活動期間10年間で41勝、ポールポジション65回を数えています。シューマッハは16年間で91勝、ポールポジション69回となっており、セナがポールポジションの回数が活動年数に対して、ダントツに多かったことが分かります。逆にシューマッハは、活動年間当たり勝利数ではかなり多かった特徴があります。
このことには、シューマッハがNo.1ドライバー体制を強く望み、チームオーダーにより先行していたNo.2ドライバーを抜かさせてもらって優勝するなど、露骨な行動をしていたことが影響しているものと考えられます。これは、シューマッハの政治力と言えるでしょう。
戦績には車の出来不出来が大きく影響するので確定的なことは言えませんが、優勝回数がポールポジションに比べて多かったことは事実です。対してセナはポールポジションが多く、その当時の「最速のドライバー」となるのでしょうか?
レギュレーションの変化もあり結論付けられませんが、シューマッハがピットストップなどを利して勝率を伸ばしていたことは知られたことでした。「作戦のシューマッハ」と言えるかもしれません。

問題のレース

シューマッハは数々の危険行為を行い制裁を受けていますが、反省することはなく繰り返していました。安全に関する新しいドライビングルールは、シューマッハが作り出したと言えるでしょう。
ミカ・ハッキネンとトップを争っていた最終ラップでは、追い越しをかけてきたハッキネンをブロック、というよりは故意に接触、ハッキネンはその場でストップ、シューマッハは完走して優勝をものにしました。シューマッハはレース後ハッキネンを尋ねて「見えなかった」謝罪しましたが、その後テレビで語ったところでは「見えていた。勝つために当然のことをしたまで」と語っています。

1994年オーストラリアGP

1点差でチャンピオン争いをしていたデイモン・ヒルと接触、結果的にシューマッハのチャンピオンが決定しましたが、そのいきさつに大いに物議をかもしました。
シューマッハはデイモンと接触する前にコースアウトしてダメージを受けており、コースに復帰しましたがレースを継続することさえままならない状況で、デイモンのマシンが抜きに掛かったとき、譲るべきところを故意にぶつけていることが見て取れました。
この年、セナの死を目前で見たシューマッハでしたが、危険に関しての認識は改まってはいませんでした。この変わらない姿勢と、相手の立場を思いやらないシューマッハの言動をどのように評価すべきなのでしょうか。

1995年ベルギーGP

雨のコンディションの中、スリックタイヤで勝負に出たシューマッハは、レインタイヤのデイモンをブロックし続けて、最終的には晴れてきたことでデイモンに競り勝つことが出来ました。雨の中でのデッドヒートはシューマッハのドライビングテクニックが、誰よりも勝っていることの証明となり、彼自身の戦績の中でもハイライトとなっています。しかし、危険なブロックを繰り返しており、このレースの後、レギュレーションでブロックは1回のみと規定されるなど、「シューマッハは危険な男」との評価を固めることとなりました。
勝つことにこだわるとしても、セナとはアプローチがまるで違うようです。

1997年ヨーロッパGP

またまた1点差でチャンピオンを争うジャック・ヴィルヌーブと、レース前にフェアに競うことを誓い合うイベントをしたのですが、シューマッハがヴィルヌーブに抜かれそうになった時、シューマッハはまた故意にぶつけたとして制裁を受けます。
これほど明確に、ぶつける行為をしてしまうのがシューマッハでした。この危険を反省しない姿勢は、常人では考えられないことです。

2002年オーストリアGP

チームメイトのルーベンス・バリチェロが1位を走り、2位にシューマッハがつける展開になっているとき、最終ゴールライン寸前でバリチェロは不自然なスローダウン、シューマッハが優勝となりました。誰もが「なんだこれは!」と感じたのですが、これはチームオーダーでありました。バルチェロは監督から「譲らなければ契約を考える」とまで言われていたようです。
この件を契機に「チームオーダー禁止」の規定が出来ました。レース展開の中で自然に行われれば定かではなくなるのであり、またマシンの性能そのものに差が大きければ結果は明白です。シューマッハはチームオーダーを契約書に盛り込むようにチームに迫っていたと言います。

2006年モナコGP

予選終盤になり、トップタイムを出したシューマッハは、「ドライビングミス?」でコーナーでストップ、他車のタイムアタックを故意に妨害したとしてペナルティーを受けました。
ここまでくるとシューマッハが何をしていたのか、すべてを疑いたくなります!

2010年ハンガリーGP

2006年一度引退したシューマッハでしたが、2010年復帰しました。ペースが上がらないシューマッハはバルチェロにインからストレートで抜かれかけたとき幅寄せして、バルチェロがセナのようにコンクリート壁に衝突しかけたことで、元チャンピオンのニキ・ラウダなど各方面から厳しい批判を受けています。シューマッハは、この時も反省の姿勢を見せず、「再度、引退するように」と激しい非難を浴びています。
「最悪の事故にならなかったことは奇跡だ」と言われましたが、セナの事故を目撃して涙したシューマッハの心境とはいかなるものであったのか、不思議に思います。他者の立場を思いやることが出来ないシューマッハの危険性を考えなければなりません。日本であれば、この行為でバルチェロが死亡していれば、証明はなかなか難しいでしょうが、業務上過失致死、あるいは最悪殺人罪です。F1レースであっても人命がかかっていますので、警察の捜査が入る必要が時としてあるのです。

フェラーリを立て直したシューマッハの手腕

シューマッハが移籍した当時のフェラーリは、チームとしてのまとまりもなく、ピットワークでもミスが多い状態でした。
「F1パイロット」と呼ばれるF1レーサーには大きく分けて2つのタイプがあると考えれるのでは? と思います。
1つは、何が何でも速く走ろうとするレーサーです。ナイジェル・マンセルなどはこのタイプでしょう。このタイプのドライバーは早く走るのですが、そのマシンの限界を超えて壊してしまうこともあり、チームとの連携が必要で、監督の采配が重要となってきます。かなり熟成したマシンであれば、とんでもなく早く走ることもあり、1992年当時のウイリアムズ・ルノーなどは、マンセルの活躍できる体制が整っていたと言えます。
もう1つは、マシンの性能をギリギリまで発揮させるタイプのドライバーです。マシン開発の過程でセッティングに参考となる意見を出すことが出来ます。ホンダが初めて参戦したころのエースドライバー、ジョン・サーティースなどはこのタイプで、ホンダとしては当時、良いパートナーだったのでしょう。

幾度もチャンピオンになった人たち、アラン・プロストなどはこの両方であり、セナやシューマッハはその中でも、さらにチャンピオンの中のチャンピオンとなれる資質を持っていたと考えられます。
特にマシン開発のコンセプトを決め、設計製作、熟成、そして戦略を理解して、開発、レースの現場で監督の指示を理解し、すべてのシステムを熟成していける能力が高い人材なのでしょう。

ジョン・サーティース(John Surtees, OBE 1934年2月11日 - )は、イギリス・イングランド出身のレーサー。2輪(モーターサイクル)のロードレース世界選手権(WGP)と、4輪のフォーミュラ1(F1)の両方で世界チャンピオンになった唯一のレーサーである(2015年現在)。「ビッグ・ジョン」、「怖いもの無しのジョン」の異名を取る。日本では「サーティーズ」と表記される場合もある。

出典:ja.wikipedia.org

シューマッハは良く言えばカリスマ経営者のように、悪く言えば独裁者のように、自分中心に組み立てる能力が強く、優勝回数を多くすることが出来たものと考えられます。
無謀で、人命を危険にさらしても反省が出来ないところもあり、天才的能力を示す一方で、他人の立場を理解できないことなどから、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、エジソン、ベートーベン、アインシュタイン、ヒトラー、織田信長など歴代の天才と同じように、かなり偏った思考の持ち主であったと考えられます。それがレジェンドとなった現在、世間の評価が2分される要因、根拠であろうと推察できるのです。

2006年10月、インディペンデント紙のインタビューで、元F1ドライバーのニキ・ラウダ、スターリング・モス、ジャック・ヴィルヌーヴ、ハンス・シュトゥック、マーティン・ブランドルおよびF1ジャーナリストのデイヴィッド・トレメインの6人がシューマッハについて語っている。

『英雄か、それとも悪人か?』という問いには、ラウダが「英雄」、シュトゥックも「もちろん、疑いなく英雄だ」と答えているのに対し、ヴィルヌーヴはシューマッハの本性が見えていないのが問題だ(すなわちこの問いには答えるまでもない)として彼の走法や人間性を酷評。そのほか、モスは「両方」、ブランドルは「英雄だが悪人の部分を持つ」、トレメインは「アンチヒーローと呼ぶのがいちばんいいだろう」と回答している。また『最も偉大なドライバーか?』との問いに対しては、ラウダは「YES」、モス、シュトゥックは他者との比較において「NO」、トレメインはライバルの少なさを理由に「NO」、ヴィルヌーヴ、ブランドルははっきり「NO」と回答している。

出典:ja.wikipedia.org

アスペルガー症候群の有名人には、織田信長・坂本龍馬・アインシュタイン・ベートベン・レナオルドダヴィンチ・エジソン・ゴッホなど歴史上輝かしい成果を挙げた名前が並んでいます。彼らは一般の人には及ばないレベルの集中力とこだわりを特定の分野で発揮するため、社会や時代が有用としている分野とアスペルガー症候群のこだわりの分野がマッチしたときには大出世する好例として、アスペルガーの有名人やADHDの有名人という話題は注目を集めています。

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1996年ベネトンからフェラーリへ移籍

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この年、ベネトンでドライバーズ・タイトルをものにして、フェラーリに移籍しています。当時フェラーリは低迷しており、名門復活にはセナやシューマッハのようなマシンセッティングに強いドライバーが必要でした。シューマッハが移籍した年も、チャンピオンになれる可能性はないとシューマッハは初めから語っており、チーム再生に向けて一からの出発を覚悟しての移籍であったのでしょう。

1997年ベネトンからスタッフを引き抜く

ベネトンからチーフ・デザイナーとテクニカル・ディレクターを引き抜いて、フェラーリのチーム力を一気に向上させたことを見ると、シューマッハがドライバーとして政治力にもたけた一面を見せています。これが後に「極端なNo.1ドライバー体制」を取らせる序章であったのでしょう。彼にはカリスマ的リーダーシップ、悪く言えば独裁者の素養があったと感じます。
この年ヴィルヌーブとタイトルを争いましたが、接触事故を故意に起こしたとしてドライバーズ・ランキング2位を取り消されてしまっています。
ジャック・ヴィルヌーブやデイモン・ヒルに対しての極端な敵対的言動の一方で、カート選手権以来のライバルであるミカ・ハッキネンには、抜かれても車体をぶつけるなどの極端な妨害は行わず、良きライバルとして評価する姿勢を見せています。セナに対する尊敬の念などの姿勢がありながら、セナの命と引き換えに、F1パイロット全員の安全性を向上させる「普遍的価値」を見いだせないところなどに、シューマッハの意識のひずみを見ることが出来ます。

1998年新体制の確立

ベネトンから引き抜いたロリー・バーンとロス・ブラウンの活動が本格化してジャン・トッドの指揮体制も固まり、戦力はかなり向上していたと考えられます。しかし、この年もミカ・ハッキネンにタイトルを最終戦で奪われてしまいます。
「メルセデスの秘蔵っ子」と言われた時代から2人は良きライバルで、デイモン・ヒルに対しては名誉棄損、人権侵害とも受け取れるほど非難し続けていたのに比べて、「良きライバル」と両者で持ち上げる仲でした。スポンサーなどの関係もあって、ハッキネンとは良好な関係を持ち続けていたのかもしれませんが、天才シューマッハの極端な人間関係の様子は、疑問を強めるものでした。
他者の立場を理解せず、人の気持ちを配慮できないこと、決して反省しない点、態度などに極端に現れていると感じます。

1999年フェラーリ・コンストラクターズ・チャンピオン

何はともあれこの年、シューマッハ自身は初めて負傷欠場しながらも、レース現場にいてチームをサポート。1983年以来のコンストラクターズ・タイトルをフェラーリにもたらすこととなります。このあたりがオペレーションにも才能のあるシューマッハを現しています。
シューマッハは負傷、欠場後No.2ドライバーとして復帰し、エディ・アーバインをサポートして、彼をドラーバーズ・チャンピオンとするべくサポートします。しかし、「ハッキネンをブロックすることは出来ず?」、この年はタイトルは逃しています。このあたりは微妙ですね。相手がデイモン・ヒルであったのならブロックしたのかもしれません。これは推察です。

2000年フェラーリ・ドライバーズ・チャンピオン

この年圧倒的強さをフェラーリは見せて、いよいよフェラーリ復活は成ったと言える年でした。
フェラーリに1979年以来のドライバーズ・タイトルをもたらすこととなります。シューマッハとしてはベネトン以来3度目のタイトルでした。フェラーリのドライバーとして快進撃の始まりでした。

2001年圧倒的強さを発揮

この年は、アラン・プロストの最多優勝記録51勝を超えて、名実ともに歴代No.1ドライバーと言える実績を残した年でした。
4度目のチャンピオンとなり、記者会見で「僕はもうグランプリ・ドライバーとして成長することはない」「これから先も勝てるとすれば、フェラーリが進化しているのだ」と語っています。このときシューマッハはレーサーとして頂点を極めた心境に達していたことを感じさせます。またマシンとレーサーの関係をよく言い表していると感じます。
才能と努力、そして幸運とがマッチしたとき、人の人生は花開くと言えます。シューマッハにとって、大変幸福な時期であったと言えるでしょう。

2002年~2004年黄金期

結果として勝ち続けることが出来て、フェラーリ、シューマッハの黄金期と言えます。技術的にも成熟しており、ワールドチャンピオン7回の記録が打ち立てられました。

2005年ついに記録が途切れる

レギュレーションの変更でタイヤ戦争が表面化したときでもあり、ついに陰りが表面化して、ワールドチャンピオンの記録も途絶えた年でありました。

2006年ポールポジション歴代1位

この年の第4戦サンマリノで、セナのポールポジション65回の記録を越えます。セナ10年に比べて16年かかっていますが、レギュレーションの変更がある中ですので単純に比較はできません。しかし、優勝回数ではセナの41勝とシューマッハ91勝と倍以上の差があり、この差がセナとシューマッハの本質的違いであると感じます。

中島悟は「セナは、なんでも真剣に教えてくれた」と語っているように、人間関係において、セナには問題行動となるようなことはありませんでした。危険走行についてはセナも「危険な男」との非難を受けたことはありましたが、故意にぶつけるなどのことはなく、チャンスと見るか危険と見るか、見解の相違でありました。しかし、シューマッハは明らかな危険行為、故意にぶつけたと言わざるを得ないことが数々ありました。No.1ドライバー体制についても、シューマッハがかなり極端であったことが言われており、これらの戦績分析においても、シューマッハの特質として取り上げるべきことであると思います。

シューマッハの年俸

有名人となったF1レーサーの年収を予想することはあまり意味のないことです。特にレーサーなどは特殊な才能であり、F1パイロットは努力だけではどうにもならないことです。まず、親にもらった才能に感謝し、その才能を生かせる仕事が社会でお金を稼げる商売であったことを神に感謝しなければなりません。そのうえで自身の努力を評価しないと、「高慢な奴」「いやな奴」などの評価を受けてしまいます。どんな職業でも、その根本では、成功するのは「運が良い」ことであるからです。ある分野で特異な才能を持ちながら、現在の社会ではお金にならずに埋もれていった天才は数知れません。セナやシューマッハは、かなり運の良い人であることは間違いありません。
シューマッハの最高の年収は200億円とも言われていますが、契約金は30億円程度で、その他は色々な役職や広告収入でありましょう。本人もすべてを掴んでいたかどうか怪しいところです。

スイスの豪邸

現在は68億円余りのスイスの豪邸に暮らしていると見られています。近くにはレマン湖があり、周辺には、フライングスコットと呼ばれた元F1ワールドチャンピオン・ジャッキー・スチュワートのほかデビッドボウイ、ロジャー・ムーアなど、多くの有名人が暮らしています。
敷地内にコレクション用のガレージ、ガソリンスタンドも整い、映写室、プールなどの設備が整っているようです。さらにはヘリポート、クルーザー用の桟橋などもあり、税金が免除に近い水準であり、セレブが暮らすには環境が整っているのでしょう。
この豪邸に健康のまま家族と暮らせたのなら、シューマッハの人生は完成できたのでしょうが、レースの事故ではなくスキー中の事故で療養せざるを得ないシューマッハの運命を、神様が演出したのかは感慨深いものがあります。

シューマッハの愛車

F1ドライバーの愛車は我々の愛車とは違った意味合いでしょう。車への理解も当然に違った深さであることが予測され、単なるマニアの我々、車に対する素人の理解の及ぶところではないはずです。
またスポンサーの関係から、セナは「ホンダ・NSX」、シューマッハは「フェラーリFXX」「エンツォフェラーリ」「フェラーリ・カリフォルニア」などで、ハーレーも所有しているようです。趣味としての車は数知れずと言ったところでしょう。
今、療養する自宅のガレージに何台保有しているのか、我々にはその基準すら理解できないことでしょう。

シューマッハのスキー事故

ミハエル・シューマッハは、引退後スキー事故で昏睡状態となり、現在もスイスの自宅でリハビリ、療養中です。容体についてはほとんど発表されず、車いすの生活とのうわさが届いています。
スキー事故現場は、フランス・アルプスのメリベル・リゾートのスキー場でした。シューマッハのヘルメットは割れていたと言われていますので、その滑走スピードは100km/h超えていたと、当初は考えられてきました。しかし、目撃情報が出てきており、映像もあると言われています。それは「事故の前、転倒した友人を助けた後、雪深いところをさほど早くないスピードで滑走していた」とシューマッハのマネージャーが言っていますが、映像はそれを裏付けているようです。
どちらにしても事故による刑事責任などはないようで、一般的な調査をしているだけのようです。
岩に頭部をぶつけ、ヘルメットは割れて大事に至ったと言う、単なる不運な事故であるようです。

ミハエル・シューマッハ

歴代最高記録を持つF1パイロットであることは間違いのないところです。
レーサーとしての才能は突出していたようで、それが歴代1位の戦績になったことは間違いないでしょう。しかし、その一方で「評判はかなり悪い」と言えるようで、「危険で悪党」との評価があります。

ミカ・ハッキネンは、ミハエル・シューマッハを「フェアな男」と評価して、シューマッハの才能を「ドライバーとしても、チームとの交渉力もすべてが一流」と高い評価をしています。シューマッハはハッキネンと良好な関係を築く一方で、デイモン・ヒルに対しては執拗に罵倒しており、ヒルを自分より下等のドライバーとしか評価しておらず、彼が優れた車をドライブすること自体を嫌っていたと言います。これは傍から見てもあまりにも執拗で、記者が「公衆の面前でここまで侮辱されて、なぜ反論しないのか」とヒルに訊ねたところ「自分のスタイルではないからだ」と答えています。しかし、その態度そのものがシューマッハは気に入らなかったようです。
チームマネージメントで手腕を発揮し、フェラーリを再建して見せたのですが、チーム監督としては誰からも招へいされなかった事実は何を示しているのか、今となっては誰も口を開くことはないでしょうが、かなりの悪評判であったことは確かなようです。

ミハエル・シューマッハ 公式HP

まとめ、「神の授けてくれた天才ドライバー」

シューマッハのおかげでフェラーリは再建され、シューマッハも非常識とも思われるNo.1ドライバー体制を契約に盛り込み、自分の戦績を伸ばすことに執着して、レジェンドとなりました。通常人々が手に入れたいものはすべて手に入れているように見ます。一見して成功者の人生です。
これが英雄シューマッハの優れたマネージメントの才能を示し、ビジネスの分野でも政治の世界でも成功者となりえた資質と考えるべきでしょう。セナは大変お人よしの天才ドライバーでしたが、シューマッハは、やはり「皇帝」と呼ぶべき存在でありました。
彼の言動で気になるところは、セナの死を目前にして衝撃を受け、彼に戦績をささげるほど傾注していたのに、F1パイロットの安全に関することには興味を示さず、危険な行為を繰り返して、口先はともかく反省の姿勢を示していません。幾度となく制裁を受けても、故意にぶつけるなど大変バランスの悪い思考でありました。
これらを鑑みると、ミハエル・シューマッハはビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、エジソン、ベートーベン、アインシュタイン、ヒトラー、織田信長など歴代の天才と同じように、かなり偏った思考の持ち主であったと考えられます。
これら「アスペルガー症候群の人材がいなければ人類は進歩しない」と言われるほど影響力があるのですが、そのひずみの出方ひとつで、ヒトラーのように多大の犠牲者を出すこともあり、警戒が必要な人物でもあります。
車の操縦に関して天才ぶりを示したレーサーは数多くいますが、マネージメントに関しても優れた手腕を見せる人は少ないものです。F1レーサーとは、その両方を兼ね備えていなければならないことを証明しているのがシューマッハの人生でありましょう。
さて皆さんは「英雄」と感じますか、それとも「悪党」でしょうか?
私には「神が授けてくれた天才」と感じます。