ニキラウダ 瀕死の重傷から復活したF1チャンピオン エピソードからプロフィール、映画まで

現在はメルセデスAMG F1チームの非常勤役員を務めるニキ ラウダ氏。F1ドライバーとしては3度のシリーズチャンピオンに輝いた名ドライバーです。なによりも、火災炎上という大事故で瀕死の重傷を負いながら、6週間後にはサーキットへ復帰したという鉄人ぶりが有名です。F1ファンに愛され続ける英雄・ニキ ラウダのキャリア、そして映画にもなったその半生をみてみましょう。

ニキ ラウダという人物

出典:https://shesaidsaidshe.wordpress.com/tag/niki-lauda/

1949年2月22日生まれですから、今年で67歳になりました。オーストリア・ウィーン出身のF1レーシングドライバーで、1975年、1977年、1984年の3度F1チャンピオンに輝いています。
世界中何処へ行ってもニキ ラウダで通用しない国は無いと思いますが、本名は“アンドレアス・ニコラウス・ラウダ”です。ニックネームは、“ニコラウス”からとった“ニキ”で、F1マシンのカウルにも“Niki Lauda”の文字が書かれていました。
多くの製紙工場を所有する資産家階級の家に長男として生まれました。レースの道へ進む決意をしたのは、1966年のドイツグランプリ(ニュルブルクリンク)を観戦したのがきっかけだと言います。ただ、家族は跡取りとして歩んで欲しかったことから決して協力的でなかったようです。
初めてのレースには家族に内緒で参戦しました。そのレースでいきなり2位になり新聞のスポーツ欄に掲載されてしまったため、父親は激怒してレース禁止を言い渡しました。それでも内緒でレース参戦を続け、次のレースでは優勝してしまったことから“レースを辞めないのなら、ラウダ家の持ち物を一切置いて家から出て行け”と言われてしまいます。
それでもレースを続けたニキは勘当されることになってしまいました。後ろ盾のないままスポンサーとの交渉も行い、金銭的苦労を重ねながらステップアップしていったのです。

エピソード

・15歳の頃にすでに会社のトラックを運転して(もちろん無免許で)、工場から工場へと短距離輸送をはじめていました。地元の警察官は名家の御曹司であるニコラウスが来ると、手を振って喜んでいました。ところがニコラウスが18歳になって自動車運転免許を取得するために警察へ来ると、揃って驚愕しました。紆余曲折の上免許は取得できたものの、ニコラウスは厳しく叱られたそうです。
・初めてレーシングカーを手に入れる時には、売り手に事前に実家をみせています。購入条件はニコラウスが持っていたクルマと交換のうえ、不足分はそれを売った時に支払うというものだったそうです。もしニコラウスが支払えなくても、実家が支払うだろうと思わせる算段でした。その後もこの方法でマシンを購入し続けますが、手にいれたマシンはとても丁寧に扱っていたようです。
・念願のフェラーリ入りをしたものの、最初のテストで感想を訊ねられたとき「ひどいマシンだ」と切り捨てたと言います。当時のフェラーリではマシンの批判は絶対禁句だったのですが、「フロントサスペンションを直してほしい」というラウダの要求にエンツォ・フェラーリは「よかろう。ただし1秒速く走れなければお前はクビだ」と告げています。手直ししたマシンで見事1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示しました。
・最初の引退から2年後の1982年に突然F1に復帰しますが、その際マクラーレンのメインスポンサーだったマールボロの重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、当時の現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にしました。「まだ誰よりも走る自信があるのか?」という質問にラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答えたとか。マールボロ側も了承することになりますが、ラウダは1984年に自身3度目のワールドチャンピオンを獲得し、1ドルの価値の高さを見せつけています。
・エンツォと口論の末にフェラーリから離脱して自家用飛行機で帰ろうとしますが、航空管制塔から離陸許可が出ませんでした。既にラウダがフェラーリを辞めるという話はイタリア人には周知のことで、フェラーリを辞めて行くラウダに対する嫌がらせでした。これに対してラウダが「来年はアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くからイタリアとは縁が残っている」と答えたことから管制官は離陸を許可したそうです。

プロフィール

いきなり桁外れなエピソードがたくさん出てきましたが、そのニキラウダのプロフィールを見てみましょう。

戦績

マーチ時代

ヨーロッパF2選手権などで活躍した後、1971年9月にマーチからF1デビューしました。父親の圧力でチームへの持参金が足りず、銀行に融資してもらっています。担保にしたのは自らの生命保険でした。参戦前に記者会見を行い、自分のレース計画や将来の展望を披露する新しいタイプのドライバーでした。チームメイトはロニー・ピーターソンで、友人ではあったものの資金不足のマーチではピーターソンだけに肩入れする状況が続きました。ラウダはピーターソンと遜色のない速さをみせましたが、1972年の末にいきなりマーチから解雇されています。

BRM時代

突然の解雇でピンチに立ったラウダでしたがマールボロBRMに売り込みBRMへ持参金を持ち込むことを条件に1973年シーズンのシートを確保しました。資金稼ぎのため、BMWアルピナ・ツーリングカーレースにも参戦しています。
1973年シーズンはマシンの信頼性の問題でベルギーグランプリ5位入賞のみという結果でしたが、各グランプリをリタイアする迄は卓越した速さを見せていました。中でもモナコグランプリではフェラーリをリードする走りをみせ、その結果エンツォ・フェラーリはラウダに注目したのです。BRMチームで1レースだけ一緒に走ったクレイ・レガツォーニ(先にフェラーリに在籍)の推薦もあり、フェラーリの監督となるルカ・ディ・モンテゼーモロを代理としてラウダをフェラーリへ勧誘します。BRMとの契約がクリアーになった時点で移籍が決まりました。BMWアルピナ・ツーリングカーレースへの参戦もこの年で終了しています。

フェラーリ時代・1974年

第3戦南アフリカグランプリで自身初のポールポジションを獲得しました。続くスペイングランプリでポール・トゥ・ウィンでの初勝利を達成しています。シーズン中盤でドライバーズポイントで首位になっています。第10戦イギリスグランプリでは、ピットインした際に観客が乱入しコースに復帰できず、5位になるという珍事が起きています。
この年は2勝、ポールポジションは9回獲得しましたが、終盤の5連続リタイアによりタイトルを逃しました。このシーズンで、“徹底したテストドライブこそがレースで高性能を引き出す鍵であること”をラウダは理解しました。アンダーステアを抱えていた312B3を進化させるために、工場に隣接するフィオラノサーキットを納得するまで走り込みました。

フェラーリ時代・1975年

プレシーズンテストを積極的に行って312Tを開発しました。第3戦南アフリカグランプリから投入された312Tは信頼性も高いマシンです。ラウダは5勝と9ポールポジションをあげてワールドチャンピオンになっています。また、フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得にも貢献しました。監督のモンテゼーモロ、デザイナーのマウロ・フォルギエリとの関係も良好でしたが、モンテゼーモロは同シーズンで監督を退きフィアットに戻っていきます。後任には、ランチアのレース部門を管理していたダニエル・オーデットが就任しました。

フェラーリ時代・1976年

出典:https://shesaidsaidshe.wordpress.com/tag/niki-lauda/

このシーズンの春にマルレーネと結婚しました。第4戦スペイングランプリの前にトラクターから転落して肋骨を折りながら同グランプリで2位を獲得、第9戦終了時点で5勝をあげてポイントリーダーになっていました。
ところがニュルブルクリンクで開催された第10戦ドイツグランプリで悲劇に襲われてしまいます。高速コーナーで突然コントロールを失い、フェンスを突き破って岩に衝突して炎上しました。衝撃でヘルメットが脱げてしまったことから頭部に大火傷を負い、FRP製のカウルが燃えて発生した有毒ガスを吸い込み肺に深刻なダメージを受けました。
全身の役7割の血液を入れ替え数日間生死の境をさ迷いますが、牧師が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復します。6週間後の第13戦イタリアグランプリで奇跡の復帰を果たし、4位入賞したのです。顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったものの、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事はありませんでした。一方、マクラーレンのジェームス・ハントが第14戦カナダグランプリ、第15戦アメリカ東グランプリと連勝し、差を詰められていました。
タイトル争いは最終戦のF1世界選手権イン・ジャパンに持ち越されました。この時点ではラウダが3点リードしていましたが、富士スピードウェイでの決勝はコースに川ができるほどの豪雨に見舞われ、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみでリタイアしました。
一方のハントは決勝で3位に入賞し、わずか1ポイント差でラウダを逆転して1976年の世界チャンピオンになったのです。
リタイアで自ら王座を手放したことから、エンツォとの関係はギクシャクしていきます。さらに、第12戦オーストリアグランプリをラウダがボイコットしていたことからレースに復帰する見込みがないと判断したエンツォは、イタリアグランプリ前に代役としてカルロス・ロイテマンを引き入れます。これが結果的にレガツォーニの解雇につながったことで、チームとラウダの間に確執が生じ始めます。

フェラーリ時代・1977年

シーズン前のテストからラウダは除外されていました。第3戦南アフリカグランプリでシーズン初勝利を上げ、チームの体制を再び自分に取り戻します。第11戦ドイツグランプリ、第13戦オランダグランプリを勝利したことで、第15戦アメリカ東グランプリに2度目のワールドチャンピオンを確定しました。
ですが、それまでの経緯でフェラーリから離れることを決意していたラウダは、ゴードン・マレーがデザインしたブラバム・BT46に惹かれてバーニー・エクレストンとサインを交わします。そして、一緒に移籍することを希望したメカニックが解雇されたことに腹を立て、アメリカ東グランプリの後2戦を残してフェラーリのシートを去ったのです。

ブラバム時代・1978年

このシーズン、完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定していたものの、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアしランキング4位で終わりました。
スウェーデングランプリでは“ファン・カー”と呼ばれたBT46Bに乗って優勝しましたが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが可動する空力デバイスに当たるとのクレームを受け次レースから同システムの使用が禁止されてしまいます。
この年にラウダ航空を設立し、チャーター便の市場に参入しています。

ブラバム時代・1979年

第14戦カナダグランプリで、予選開始を前に突然引退する事を発表しました。“同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。人生が終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ”と理由を語りました。
一方で、ブラバムはアルファロメオエンジンからフォード・コスワース・DFVエンジンへスイッチしており、高回転型V12エンジン搭載のマシンに長年乗り続けてきたラウダがV8に幻滅して突然引退を決めてしまったという説もあります。
ラウダ本人は『ピットでバーニーと話したのが直接の引き金になった』と語っています。引退後はラウダ航空の経営に専念することになりました。

現役復帰・マクラーレン時代・1982年

1981年シーズンの終了間際、マクラーレンのロン・デニスとマールボロのジョン・ホーガンから、ドニントンパークでのMP4/1のテストに招かれました。11月にはマクラーレンからF1への参戦が発表され、2年半ぶりにF1へ復帰することになりました。“2年間モーターレーシングに興味を示すことはなかった。オーストリアグランプリ(1981年)の時にふと気づいたら復帰を考え込んでいた”とラウダは語っています。当時、航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もあります。
同時期、国営オーストリア航空との間で路線認可の紛争も抱えていました。復帰したラウダのヘルメットに、ラウダ航空の旅客機の尾翼と同様のデザインが施されていました。この契約時にロン・デニスは、リスク軽減の一策として“もしラウダが明白に任務を果たしていない場合、4レース後に降りてもらう”という一文を入れることを要求し、ラウダはこれを快諾しています。
ラジアルタイヤへの違和感もあったようですが、以前と同様にテストで走りこんで感覚を取り戻していきます。事故の後遺症を克服するためにサポートを受けたトレーナーのメニューで体力作りを行うことで開幕に備えました。第3戦アメリカ西グランプリで復帰後初優勝、第9戦イギリスグランプリを含む2勝を挙げてランキング5位でした。

マクラーレン時代・1983年

全15戦のうち7戦をマシントラブルでリタイアしたことでランキング10位に終わりました。それでも第12戦オランダグランプリからTAGのスポンサーシップを得て、ポルシェ製1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eに乗っています。

マクラーレン時代・1984年

この年、ラウダはルノーから移籍してきたアラン・プロストとタイトル争いをすることになります。ラウダ5勝、プロスト7勝で、予選もプロストの15勝1敗と劣勢だったものの、決勝で最後まで生き残ってポイントを確実に重ねるのはラウダの方でした。
この年の5勝の中には、ラウダにとって最初で最後となった地元オーストリアグランプリでの優勝も含まれています。決勝で1位走行中のラウダにはギアのひとつが砕けるトラブルが起きていましたが、ラップタイムを大きく落とすことなく、トラブルが起きているそぶりも見せませんでした。2位を走っていたブラバムのネルソン・ピケが、ラウダとのタイム差を考えてポジションキープしたことで優勝できたレースです。
最終戦となるポルトガルグランプリまでラウダとプロストとの争いはもつれ込みましたが、2位のラウダがプロストにわずか0.5ポイントの差をつけて3度目のワールドチャンピオンに輝きました。全16戦中12勝を得たマクラーレンは、コンストラクターズタイトルも獲得しています。
ラウダは“今までチームメイトとこんなバトルをやったことはなかった。常に少しでも速く、少しでも上手に運転して、プロストとの競争で優位に立たなくてはならなかった”と喜びを語っています。さらにプロストへは「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけています。1976年の事故以来サーキットへは一度も訪れていなかったマルレーネ夫人も姿を見せ、表彰式ではラウダと抱擁して喜びを分かち合いました。
マクラーレンに在籍した4シーズンの間でポールポジションを1度も獲得しませんでしたが、ワールドチャンピオンを獲得しています。ポールポジション無しでチャンピオンになったドライバーは、この年のラウダ以降登場していません。

マクラーレン時代・1985年

ラウダのマシンにはトラブルが多発してチャンピオン争いから脱落しました。昨年の自身の予言どおりにプロストがチャンピオンを獲得しています。第10戦オーストリアグランプリでF1からの引退を発表しました。
次戦オランダグランプリでこのシーズン唯一の勝利を挙げ、これがラウダの最後のF1勝利となりました。予選10番手スタートながら、終盤のプロストの追い上げを巧みにブロックすることで0秒232差で抑え込んで勝っています。
最終戦のオーストラリアグランプリでは一時トップ走行をしましたが、ブレーキトラブルでリタイアしました。そのレースの10日後、ボーイング737の機長養成トレーニングを受けるラウダの姿がありました。

引退後

1990年代、低迷するフェラーリのアドバイザーに就任しました。2002年にはジャガーのチームマネージャーに就任しますが、社内人事の混乱によって短期解任されています。1978年に設立したラウダ航空の経営は成功しましたが、1991年に機体の設計上の不具合が原因で、墜落事故を起こしてしまいます。その後の経営難から、オーストリア航空に経営権を譲渡しています。
2003年に自らのファーストネームをつけた格安航空会「ニキ航空」を設立して経営者になりました。2011年に共同出資者のエア・ベルリンへ会社を売却し、エア・ベルリンの社外取締役に就任ます。
現在はドイツのテレビ放送 (RTL) で解説を務めるほか、F1の現状について辛口のコメントを発しています。2012年には表彰式でインタビュアーを務めました。
2012年9月、ラウダはエア・ベルリンの役員を辞任し、メルセデスAMG F1の業務執行権を持たない非常勤会長に就任しました。自身の役割について、イギリスのレース本部(ブラックレー)とドイツのメルセデス本社のつなぎ役と説明しています。

1976年 ニュルブルクリンクでの事故

タイヤ交換によって順位を落としてからの挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前の左高速コーナーで突然コントロールを失いました。右側のキャッチフェンスを突き破って岩に衝突、その衝撃でヘルメットが脱げてしまいました。漏れたガソリンで発火したマシンは、コース中央まで跳ね返されたところで停止しますが、これにブレット・ランガーのサーティース・TS19が衝突してしまいます。
アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行いました。事故原因について、縁石に乗せた弾みでスピンしたという説やリアサスペンションの故障説なども浮上しましたが、現在も謎のままです。ラウダ本人はタイヤトラブルだと語っています。
ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負ったうえに、FRP製のカウルが燃えて発生した有毒ガスを吸い込み肺に深刻なダメージを受けてしまいます。全身のおよそ70%の血液を入れ替えて数日間生死の境をさ迷いました。
病院では、もはや助かる見込みが少ないとの見解から、神父を呼んで臨終の儀式が行われようとしていました。神父の姿を見たラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとしていたとか。

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事故の模様をとらえた動画

事故発生から6週間後の第13戦イタリアグランプリで、奇跡のレース復帰を果たし4位入賞しました。顔の右半分には大腿部の皮膚を移植した火傷の跡が生々しく残っている状態でしたが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事はありませんでした。

出典:https://shesaidsaidshe.wordpress.com/tag/niki-lauda/

ラウダとハントの因縁を描いた映画“RUSH(ラッシュ)”

天才と称されたF1ドライバー2人、ジェームス・ハントとニキ・ラウダ。私生活もドライビングも情熱的なジェームス・ハントと、レース運びも人生も頭脳派のニキ・ラウダ。2人の天才が激しく火花を散らして激突した1976年シーズンを題材に、プライド、嫉妬、愛、挫折、執念、友情を見事に表現したロン・ハワード監督の力作映画が“ラッシュ”です。

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最後にまとめ

photo by hertylion

いかがでしたか。3度のワールドチャンピオンに輝いた天才ドライバー、ニキ・ラウダ。数々の偉業や伝説を持っています。“不死鳥”の異名は、言うまでもなく瀕死の重傷からわずか42日で復帰したことが由縁です。他にもそのドライビングスタイルから“スーパーラット”とも呼ばれます。ポールポジションを獲得することなくシーズンチャンピオンを獲得するほど緻密なレース運びはまるでコンピューターのようだと言われました。
今でもF1に携わり、元気にサーカスを旅しています。レースウィークにサーキットに行けばいつでも逢える偉人。そんなニキ・ラウダをご紹介しました。