【アイルトンセナ】ポケットに100分の1秒を持つ男~伝説のドライバー 事故についてや名言までご紹介

ご存知ブラジルの英雄です。ヘルメットにはブラジル国旗が彩られており、1994年イモラ・サーキットの事故で右目の位置を貫いたサスペンション部品で即死したと言われています。でもセナの死はレース終了まで発表されず、サンマリノGPは最後まで行われました。中止すれば損害が出るのを主催者側が嫌ったのだと囁かれました。彼の死を追いかけることでF1レーサーとして生きたアイルトンセナの世界を垣間見てみましょう。

伝説のドライバー、アイルトンセナ

AUTOSPORT (オートスポーツ) 2014年 6/6号 [雑誌]

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プロフィールと戦績

世界最高峰の自動車レースF1のドライバーであった、アイルトンセナ。ブラジル・サンパウロ出身で、1960年3月21日生まれ。4才の時父親に与えられたミニチュアのゴーカートに夢中になり、13才でカートレース(レーシングカート)に初優勝。世界カート選手権では3度目の挑戦で勝利(不条理な当日のルールで取り消されてしまいましたが…)。その後、イギリスF3選手権のタイトルを取り、マカオGPも制覇しています。1984年トールマンからF1参戦を果たします。
F1世界選手権では、1988年、1990年、1991年と3度のワールドチャンピオンを獲得。いずれもマクラーレン在籍中のものです。通算で41勝、65回のポールポジションの戦績は、最速、そして偉大なドライバーを揺るぎないものにしています。
また、雨天時のレースでは、その類まれなドライブテクニックを多数みせつけ、「雨のセナ」「レインマイスター」とも言われます。サーキットの中でもドライバーの技量を要するストリート(市街地)コースも得意としていて、最も難しいとされるモナコグランプリ(以下GP)では6勝(1勝は3勝の価値があると言われている)も挙げ、「モナコマイスター」の称号も持ち、数々の伝説は今も語り継がれています。
アイルトンセナとホンダの絆は深く、日本のファンにはとても愛されています。しかし、1993年ホンダはF1から撤退を余儀なくされ、その翌年、サンマリノGPが行われたイモラ・サーキットのレース中、アイルトンセナも34歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。

F1レースの世界

F1レーサーは騎士

自動車レースは数多くあれど、F1(フォーミュラ・ワン)が自動車レースの頂点であることは誰もが認めるところです。栄誉のあるF1レーサーには「サー」(騎士)の称号を与えられ、エリザベス女王に拝謁を許されます。ジャック・ブラバム、ジャッキー・スチュワートなどがそうです。ヨーロッパでのレーサーの社会的地位は日本とは比べ物になりません。日本でいえば皇居の園遊会に呼ばれる人たちであり、勲章を得られる待遇です。日本ではレーサーと暴走族は同一視されているようなところがありますが、スポーツ界での野球の王貞治、長嶋茂雄、イチローと言った人たちよりも、サーの称号を持つ彼らは、ヨーロッパ社会の中では重いものと言えます。競馬などと同じように、F1レースは貴族の社交場のような意味合いを持つもので、モナコGPでの王室からの待遇など日本社会の皇室からの待遇とは別格の物があります。

F1は走る実験室

F1レースは、年々規則(レギュレーション)を変えながら、自動車レースとして最高の性能を争います。車は市販されている必要がなく、完全なレース仕様です。そのためほんのわずかな技術的優位を確保しようと、それぞれのチームは開発競争を繰り広げます。
ホンダが第一次F1参戦した時、社長の本田宗一郎は「F1は走る実験室」と言い切りました。F1で開発された技術が市販車に展開されるというのです。だから、市販車で私たちがお世話になっている装置も、F1で先に開発されることが多いのです。
例えば、現在のハイブリッド車で標準装備の装置で回生ブレーキがあります。これは、F1ではすでに取り入れられてきた装置です。その前では、トラクションコントロール、ABSなどもF1で先に導入され、その後市販車に取り付けられてきました。
その中で、F1では技術的に十分に成功しながら、市販車ではあまり取り入れられてこなかったシステムとして、アクティブサスペンションがあります。これはロールやダイブを抑えて車の姿勢を安定させる機能ですが、セナの死と密接に絡んでいた技術でした。

F1コンストラクター

F1に参戦する形としては、ボディーの製造者(コンストラクター)とエンジンの製造者、そしてボディーとエンジン両方の製造者がいます。ボディー・コンストラクターとしてはローラが最多で、ホンダは現在エンジン・コンストラクターです。製造者(コンストラクター)とチームは本来別ですが、現在はF1レギュレーションでチームとコンストラクターは同一とみなされています。
ホンダの初参戦の時代は、ボディーとエンジンの両方を製造していました。セナと組んだ頃は第2次参戦の時代で、エンジン・コンストラクターでした。ボディーについては、ロータスやマクラーレンが担当しており、チーム名はロータス・ホンダやマクラーレン・ホンダとなります。

アイルトンセナとマクラーレン・ホンダ

アイルトンセナとホンダの出会い

名門ロータスチームに所属していたセナは、1987年ロータスにホンダエンジンが供給されることとなり、ホンダと出会います。当時、日本では中島悟が日本人として初めてF1に参戦したことから、セナのことはあまり話題になりませんでしたが、ロータス・ホンダでこの2人がチームメートとなったことで、セナの運命も決まったと言えるかもしれません。少なくともホンダとの出会いは、セナのレース人生を決定づけています。当時、本田宗一郎との会談が話題となりました。車好きの2人は話が尽きなかったと言います。

1988年マクラーレン・ホンダ

「運命のタッグ」とも言える、マクラーレンとホンダ、セナの3者の出会いは、史上最強とも思われたタッグでした。ホンダがマクラーレンにエンジンを供給するとき、ドライバーとしてセナの起用を条件としたとも言われています。コンストラクターとしても、マシン開発に優れたドライバーとの出会いは運命を決定づけるほど影響力があるもので、優秀なドライバーはマシンの開発にも優れた才能を発揮します。

アイルトンセナが、「ポケットに100分の一秒を持つ男」と言われたのは、ポール・ポジション(PP)を生涯65回獲得し、2008年シューマッハが破るまで超える者がいなかった記録を持っているからです。
セナが死没しなかったら、どれほどの記録を残したのかはかり知れません。

PPとは予選のタイムアタックでの記録で、本戦のスタートグリッドの順位を決めるものです。1周を走る速さが「最も速い者」を決める争いです。本戦と違って短時間なので、エンジンもギリギリの高回転まで使い、他車との兼ね合いを気にせず、ベストラインを選んで走るため、車の性能をギリギリまで発揮させるドライバーの腕前を見ることができます。
この予選で、1周でのタイムアタックで順位を争い「もう100分の1秒タイムを縮める必要がある」とき、セナが指示するセッティングを行うと、確かに短縮してしまうのです。それが「ポケットに100分の1秒を持つ男」と言われた所以です。
以下は、1988年モナコGP予選後のアイルトンセナの名言です!

【アイルトンセナの名言】
「僕は他の誰よりも2秒近く速かったね。突然、自分が意識してマシンをドライブしていないことに気づいたんだ。自分の意識的な理解を超えていたんだと分かってギクッとした」

出典:ja.espnf1.com

このセッティングの腕前を見込んだホンダが、セナを頼りとしていたことは容易に想像できるものです。
そして、この年マクラーレン・ホンダで出会ったアラン・プロストとの強烈なライバル関係は、むしろセナの天才たる姿を際立たせることとなります。

マクラーレン・ホンダとセナとの契約金は年間20億円と言われており、セナの年収は当時100~200億円と噂されました。

ジョイントNo.1体制

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通常、F1チームでは2人のドライバーと契約します。レースに出るのも2台です。でも、どちらかのドライバーをエースドライバーとして優先してレースに勝たせるようにします。2番目のドライバーであるコ・ドライバーは、レース展開でも、与えられるマシンでも援護に回るのが常でした。しかし、プロストとセナは全てに同列のエースで、同じチームであってもライバル心をむき出しで争っていました。
そのためチームとしての年間優勝(コンストラクターズ・タイトル)は早々と決まっても、ドライバーズ・タイトルは2人がポイントを分け合っていたので、最終戦までもつれ込むという大接戦を演じます。この2人で1-2フィニッシュを通算で10回記録するなど、圧倒的強さをマクラーレン・ホンダとプロスト、セナのタッグは見せつけていたのです。

100~300回転差

セナとプロストを比較すると、平均してエンジン回転差が100~300回転ぐらいあることが分っていました。これでカーブで減速したときでも、セナのマシンはエンジン回転を高く保ち、カーブからの立ち上がりで差をつけ、シフトアップのエンジン回転数もセナが高いので、加速も早くなっていました。ドライブテクニックの違いだったのですが、プロストは、セナに与えられるエンジンのほうが高出力であると誤解していたとも言われています。
高回転型のエンジンでは最高出力が出る回転域が狭く、出来る限りその回転域でエンジン回転を保つことが必要でした。1周する間、回転を高く保っていられることは、エンジン馬力が上がったようなものですので、ドライブテクニックとしては基本的なことでした。しかし、100~300回転も差を付けるまでにエンジン回転を高く保つことが出来たのが、セナの天才としての証でした。そして、それが1994年サンマリノGPでの命取りの原因ともなったと考えられます。

以下は、アイルトンセナの名言です。

【アイルトンセナの名言】
パフォーマンス、コミットメント、努力、渾身さに関しては中間なんて存在しない。やり遂げるか、やらないかのどっちかだけだ。

出典:www.porgoru.com

1秒間に6回アクセルをあおる「セナ足」

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どのようにしてアイルトンセナは、天才アラン・プロストを凌駕するほど、エンジンをギリギリの高回転に保つことが出来たのでしょう。過回転をすればエンジンを壊してしまいます。エンジンの耐久性ギリギリの領域で回転を保つセナの方法論が「1秒間に6回アクセルをあおる」ことでした。この速さは、もはや「あおる」ではなく「振動」でした。これが「セナ足」と言われています。

エンジンの回転を上げるためアクセルを開けると、少しばかり遅れてエンジン回転数が上がってきます。アクセルを放して少し待つと、回転が落ちてきます。高回転を保つため、また過回転をさせないためには、アクセルを一定に保つより、あおることを繰り返すほうがマッチすることを、運転が好きな皆さんも感じているはずです。「エンジン回転計(タコメーター)を見ながらレッドゾーンギリギリに保ってみろ」と言われたなら、少しあおりながらのほうが正確に保てることが分かるでしょう。

それを100倍精度を上げて行おうとするなら、アクセルとエンジン回転のタイムラグに気づくはずです。アクセルの動きに必ずしもエンジン回転がついてこないのは、知られたことです。「ターボラグ」と言われる排気タービン装着エンジンの特性では、このタイムラグが如実に表れます。その防止策ともいえるテクニックでしたが、それをセナは桁違いに敏感に感じていたのでした。自然吸気エンジンでも、アクセルワークとエンジン回転にはタイムラグが生じます。セナは、それを微妙に調整してエンジン回転を落とさないようにしていたのです。

この「1秒間に6回アクセルをあおる」速さはもはや振動であり、フライ・バイ・ワイヤーの電子制御アクセル・コントローラでは雑音と区別できず、ホンダ技術陣が悩んだと言います。
このように、セナの感性は常人ではなく、天才と呼ぶにふさわしいレベルにあり、マシンの完成度を見るときにはどのようなセンサーよりも優れていました。それゆえセナはマシンの性能のぎりぎりを引き出し、アランプロストなど天才同士の戦いに勝利できていたのです。しかしそれは、常識的にはごくわずかでも、セナの用いる変動幅を超えてマシンの挙動が狂うと、制御できない領域に入ってしまい、非常に危険でもありました。1994年サンマリノGPのタンブレロ・コーナーでは、わずかなマシンの挙動を狂わす条件と思われる範囲でも、セナの微細な感覚が追い求めた限界領域では、もはや回復が困難な幅であったのかもしれません。

ウイリアムズ・ルノーの台頭

電子制御の世界

【アイルトンセナの名言】
「僕は自分自身の限界に挑戦したいんだ。それから、コースに対する知恵と経験と順応性は違うけど同じように肌と骨でできた人に挑みたい。コンピューターとなんか戦いたくない。自分のドライビング――僕の趣味であり仕事――に全力を捧げられるのなら、誰とだって競争できる。ただし、それはコンピューターじゃない」

出典:ja.espnf1.com

今では市販車でも常識となったABSやスキッドコントロール、回生ブレーキがあります。セナが活躍し始めたころは、F1マシンがスタートするときホイールスピンを起こし、タイヤが白煙を上げながら徐々にグリップを回復して加速していく光景を目にしていました。それが、ほとんど白煙を上げることなくスタートするチームが現れたのです。スタートするときアクセルとクラッチの操作は、当時、大変難しいものでした。エンジン回転を上げておかないと、クラッチをつないだ瞬間エンジン回転が極端に落ちてスタートが遅くなり、最悪エンストします。かといって回転を上げすぎていると、タイヤが空転して路面をグリップできずに前に進まないだけでなく、白煙を上げてタイヤを痛めてしまいます。
スキッドコントロールができたおかげで、スリップが少ない状態でスタートできるようになり、せっかくポールポジション(スタート位置トップ)を確保していても、スタートに失敗して2,3位ならまだしも大きく順位を下げることはセナでもあったのです。この解決はかなりの戦力と考えられていました。
また急ブレーキを踏んだ時、タイヤがロックしてスリップし、かえってブレーキング距離を長くしてしまうことを自動的に調整するABS機能は、すでに市販車でも常識となっていますが、これも、当時登場したものでした。
そしてウイリアムズ・ルノーは、コーナリングでのロールや、ブレーキングでのノーズダイブを抑えるアクティブサスペンションを開発しました。それでコーナリングスピードを上げてきたため、マクラーレン・ホンダとウイリアムズ・ルノーの戦力は逆転し始め、アイルトンセナとナイジェルマンセルとの死闘が始まったのです。

アクティブサスペンションとの死闘

ウイリアムズ・ルノーとの戦いは、最初の頃はホンダ・エンジンがトップ出力で上回っていたので、マクラーレンは、コーナリングではウイングを立ててスピードを上げ、直線ではホンダパワーで強引にスピード上げるセッティングで臨んでいました。まだ、セナのドライビングにも余裕が感じられて、優位に戦いを進めていました。
しかし徐々に、ルノーエンジンが熟成してきて出力を上げてきたとき、アクティブサスペンションでコーナリングスピードを高くできるウイリアムズは、ウイングをマクラーレンより立てる必要がなく、直線での空気抵抗が少ない分、スピードでもマクラーレンに肉薄してきました。そこでマクラーレンは、ウイングを水平側に下げてトップスピードを稼がねばならなくなり、ドライバーにはコーナリング・テクニックを要求されることとなってきました。そこで見られたセナの技術は見もので、滑り出す限界でマシンを抑え込むように操縦するテクニックは、観客を魅了するものでした。
幾度となく繰り広げられたナイジェルマンセルとの死闘は、F1ドライバーの世界を垣間見た気持ちにさせてくれました。

1992年モナコGP

アクティブサスペンションなどハイテクを完成させたウイリアムズ・ルノーは、戦闘能力ではマクラーレン・ホンダをしのいでマンセルの連勝が続き、セナに勝機はもう来ないかと思わせました。そんな中で行われた第6戦モナコGPでは、マクラーレン・ホンダの劣勢は覆い隠しようのないものでした。しかし、ピットワークと連動していた当時のレギュレーションを、セナは生かし切っていました。

セナの天才ぶりは競技中のあらゆる条件を見渡し、最適の行動が出来ることにあります。PPの多さも、その才能からです。予選で走っているコースを見渡し、邪魔になる他の車がないタイミングをはかる才能は見ている人にはわからないほどでした。他の車が現在走っているところから推測して、自分がタイムアタックに入ったとき、どこにいて邪魔にならないかをお見通しであるように、つかえることなく走るのです。見ていて、圧巻でした。
1992年モナコGPでは、ピットワーク中に先頭に出ると、追いすがるマンセルを、モナコの公道サーキットの特徴である追い抜きポイントの少なさを利して制しました。その接近戦は、天才セナのものでした。まさに、「モナコマイスター」です。

アイルトンセナは危険な男?

一方、歴代チャンピオンを含む幾人かのレース関係者からは「セナは危険な走行をする」と非難されました。「フライング・スコット」と呼ばれたジャッキー・スチュワートもセナの危険な走行に憂慮を表していました。しかし、セナは「それがF1レースだ」と考えていたようです。
これは、セナが「天才の中の天才」であることの証でもありました。セナの感性では「隙」と見える瞬間でも、他の天才たちには危険と感じるのでしょう。セナの尺度は、天才たちの尺度の10倍ほどの精度を持っていたと理解するべきでしょう。それはセナが事故死した原因の背景であり、真の原因であると考えられるからです。
セナ自身も、名言を残しています。

【アイルトンセナの名言】
「僕はリスキーな走り以外できない。相手を抜かなければならないときは絶対に抜く。パイロットそれぞれに自分の限界があるけれど、僕の限界は他のパイロットより少し上なんだ。」

出典:www.porgoru.com

ミハエルシューマッハの見たセナの最後

皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡―Danke,Schumi!

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ミハエルシューマッハがデビューした当時、物おじせず、セナにも追突したほどでした。1992年フランスGPでは、シューマッハが追突したことで再スタートになったグリッドで、セナに叱られるシューマッハがいました。セナは若いころの自分の姿をシューマッハに見ていたのでしょう。その後しばらく2人の間でトラブルが続きますが、1994年運命のサンマリノGPでは、既にシューマッハは尊敬の念を抱いていたとも伝えられるセナの直後を走り、事故の目撃者となっています。ミハエルシューマッハは、レース後、婚約者とトレーラーハウスにこもり、泣き続けたと言います。
セナの死後、彼のドライビングは明らかに変わりました。テレビ中継を見ているだけで、彼は「大人になり」、セナ没後のF1レース界のエースとして自覚出来たことが手に取るように分かりました。おそらくはシューマッハこそが、セナの事故の真相を最もよく理解する人物でありましょう。

その後シューマッハは、セナの優勝記録41回を超えたとき、記者会見で号泣しました。セナの記録PP65回を超えたときも、彼の中でF1レーサーの人生はどのようなものと見えたのでしょうか?

運命の1994年サンマリノGP

1991年、「日本の親父」とセナが慕ったホンダの創業者本田宗一郎が、ハンガリーGP直前に他界します。ウイリアムズFW14に苦しむ中、セナは喪章をつけてこのレースをポールポジションからスタートして優勝し、完全に制します。ホンダ陣営の弔い合戦に、セナは先頭に立っていました。
しかし、この年ウイリアムズはセナ獲得に動いていました。ホンダ陣営はセナを口説き落としてマクラーレン・ホンダに残留させたのですが、1992年はウイリアムズ・ルノーの前に敗退し、ホンダはF1から撤退していきます。
このときの判断をセナは、「自分の間違いだった」と回想しています。しかし、これがセナの運命を狂わせたのかもしれません。

1992年ホンダF1撤退

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ホンダは宗一郎を失い、日本経済もバブル崩壊を受けて、不況から経費節減を強いられました。マクラーレンもかつての戦闘力を失って、セナもマクラーレンを去ることが確実視される中、ホンダは撤退します。
セナにはラジコンの趣味がありました。休みの日にはホンダ技術陣とラジコンを飛ばす、あどけない青年のセナがありました。その時「俺は若いから待っている」とF1の世界での再会を、ホンダ陣営に語ったと言われるセナは、カメラの前でホンダとの別れに涙しました。
1992年日本グランプリでは、ホンダの日本でのラストランになるため、ホンダ陣営では「鈴鹿スペシャル」と呼んだ特別のエンジンを用意します。細心の注意を払って組み立てられた特別製のエンジンをセナに託します。セナのヘルメットにも日の丸が描かれました。日の丸の小旗を操縦席に忍ばせ、優勝したら小旗を振って日本のファンと別れを惜しもうとしていたのでした。
しかし、序盤3周でエンジンストールとなりリタイヤしてしまいます。しかし、これが日本のファンとの別れとはなりませんでした。

1993年第15戦日本GP

この年、ホンダエンジンを失ったマクラーレンはフォード・コスワースのエンジンを積みますが、ワークス仕様ではなく苦戦が予想されました。セナはウイリアムズ加入を画策したのですが、なんと宿敵ともいえるプロストがドライブすることになり失敗します。
そのとき、前年ウイリアムズ・ルノーでチャンピオンになったマンセルがCARTに転向したため、セナも本気で転向を考えたようです。アメリカでCARTマシンに乗るセナが目撃され話題となっていました。
1993年はチャンピオンになる可能性をあきらめていたセナでしたが、そこは「レインマイスター」、雨のレースになるとその才能を開花させて優勝していました。
1993年第15戦日本GP、昨年のリタイヤを取り返すべくセナは万全の準備をしています。予選で2位になると、決勝スタートグリッドとなるラインの埃を払うべく、フリー走行ではイン側ばかりを走っていたと言います。不利なインスタートを制してトップに立つと、今度はセナを後押しするように雨が降り出し、セナはトップフィニッシュを決めて日本のファンの期待に応えています。

1994年、アイルトンセナ、ウイリアムズ移籍

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1994年、ウイリアムズ移籍を果たしたセナでしたが、この年レギュレーションが大幅に改定されて、ウイリアムズの独走を許していたハイテク技術が禁止されます。FW16は完成された状態とはとてもいいがたい様子でした。空力を重視したつくりで、アクティブサスペンションを失ったFW16は挙動が安定せず、セナをもってしても「乗りこなせていない」と言わしめる状態でした。
アクティブサスペンションを失って、車体をコントロールすることから作り直さなければならず、ウイリアムズが一番変化を求められていました。マクラーレンなどが従来の技術の熟成で事足りた状態とは雲泥の差で、ウイリアムズが一番不利な立場であったと理解するべきでしょう。

アイルトンセナの名言です…。開幕前日の談話から。

【アイルトンセナの名言】
「マシンはかなり速くて扱いにくい。アクシデントの多いシーズンになる気がする。もし重大なアクシデントが何も起こらなければ僕たちは幸運だと、思い切って言うだろうね」

出典:ja.espnf1.com

1994年第3戦サンマリノGP

セナの予言通り、このレースは初めから大荒れの様相で事故が相次いでいます。予選では、まずルーベンス・バルチェロが大クラッシュ、セナは病院に見舞っています。予選2日目、ローランド・ラッシェンバーガーがF1では12年ぶりとなる死亡事故を起こしています。この時セナは、恋人に電話で「走りたくない」と話していたことが知られています。

しかし、ここでセナの名言。関係者からレース欠場を示唆されて…

【アイルトンセナの名言】
「僕たちには制御し切れないものがある。僕は辞められない。進むしかないんだ」

出典:ja.espnf1.com

この年セナは、いずれの試合もPPを取っていました。このレースでもPPから。最初のスタートは他車の事故で再スタートとなるも、ミハエルシューマッハを従えて再スタートを決めました。しかしその後、タンブレロ・コーナーでコースアウトしてコンクリート壁に激突大破します…。

アイルトンセナの事故

テレビ中継で、セナがヘリに積まれて搬送する姿が見られましたが、のちにセナがそのとき乗せられていた担架は、防水シートで急造されたものであり、脊椎損傷が考えられる患者を運ぶものではなかったと指摘されました。つまり、そのときすでにセナは絶命していたことが確認されていたことの証拠とされたのです。
車載カメラには、セナが左にハンドルを切っているのですが、車は曲がらずに右に飛び出しコンクリート壁に激突した様子が映し出されていたと言います。
事故後、たくさんの原因究明が行われてきましたが、イタリアのお国柄もあるのでしょうか、原因究明に至らず、いまだ解釈が分かれる結果となっています。

事故映像

1994年イタリア中部イモラ・サーキットでサンマリノGPが行われました。
その日PPを取っていたセナは、スタートするとトップに立っていましたが、後方の事故によりペースカーが入り、再スタート後7週目、ミハエルシューマッハを従えてトップを走行中、タンブレロ・コーナーで飛び出しています。時速300km/hを超えていたと言います。激突時は200km/hを超える程度まで減速した状態でコンクリート壁に激突しています。
タイヤ、サスペンションなどが飛び出し、壁に跳ね返ってスピンしながらコース上に戻ってきていました。レースは中断され、セナをヘリで運搬した後、レースは再開されます。

事故映像は公式ではありませんがYouTubeであげている方もいますので確認してみてもいいかもしれません。

アイルトンセナの事故原因

原因について2つの説が有力視されています。

【1】FW16でセナのリクエストを受けてホイルベースが短縮された結果ハンドルが近寄りすぎたため、それも改修するようセナからの強い要請があり、レース直前ステアリングシャフトを切断、ジョイントでつなぐ応急処置を施していました。そのジョイントが外れ、車載カメラで写っていたように、セナがハンドルを左に切っても曲がらずに飛び出したという説。

【2】「タンブレロ・コーナー」手前にはわずかな凸凹があり、スタートしてから7周と、まだ十分にタイヤが温まらず車高が低かったため、その凸凹にマシンの何かが接触して車体が浮き上がり、ハンドルも効かずにコースアウトしたとする説。

今となっては原因特定の調査はなされないのでしょうが、レースを続行した主催者側にも非難の声がありました。

その日のイモラ・サーキット

このサンマリノGP、イモラ・サーキットでは3日間で事故が5件も発生し、死者はセナを含めて2名、多数のけが人を出しています。これは前例のないことで、予選1日目ルーベンス・バルチェロが大クラッシュ、予選2日目ローランド・ラッシェンバーガーがクラッシュ死亡の時点で、なぜ中止できなかったのか?
セナがクラッシュした時点でレースは中止する選択もあったのですが続行、またレース再開後ピットで事故と連鎖していきます。やはりプロフェッショナルと言えども、死亡事故が起きているのですから、セナだけでなく、皆が動揺しています。連鎖することも十分に考慮して中止すべきであったのでしょう。
少なくともセナは救急隊が駆け付けたとき、すでに息はなく、気道確保の手術がその場で行われています。病院で検査を経て死亡を確認としていますが、本戦で死亡者が出たときにはレースが中止されることを知っていた主催者側が、発表を先延ばしにしていたとも言われています。

「僕たちには制御し切れないものがある。」セナの言葉が示唆していたものとはこのことだったのかもしれません。

このレースの経緯を見ると、主催者側が中止を避けるために無理をしたことは、隠しようもない事実でありましょう。
これもF1の莫大な利益を生む、興行としての宿命なのでありましょうか。

アイルトンセナの名言

アイルトンセナの名言は、そのシチュエーションから生まれるもので、とても意味の深い言葉が多いものです。セナの人生物語の中でご紹介するのが一番いいのですが、他にもありますので、ここにご紹介します。

【テクノロジーの拡大】
「マシンは特性がなくなった。でもそれはスポンサーとファンが探し求めている特性だ。上位勢では対立する個性的な特性を持つところもあるけど、他はいい結果を出せなければどんな信ぴょう性もない。僕たちはコンピューターじゃなく人の力を重視する時代に戻るため、コストを削減しなきゃいけないんだ」

【神様との関係】
「神様が味方してくれればすべてがはっきりする。僕は彼の加護を受けている。でも、もちろん、他の人と同じように傷つけられたり殺されたりすることだってあるかもしれない。自衛本能に必要なこの知識があるから気持ちをしっかり保っていられる。知識を会得したり理解したり、平和をより深く追求することに終わりなんかないんだ。習慣だからというのではなく、僕の人生を革新してくれたから僕は日頃から祈るのさ。教会に行くことはほとんどない。僕が教会で心地良くなれるのはそこに誰もいない時だけだからね」

【他のドライバーとの関係改善】
「もし他のドライバーたちと、もっといいコミュニケーションがとれれば、いろんなことを話せるし、自由に話すことができる。お互いに尊重し合わないといけないと思うし、競争に誠実さがあると信用しなきゃいけない。それを疑えばかなりアグレッシブになってしまう」

【恐怖】
「グランプリレーシングで生き残るには恐れる必要がある。恐怖は重要な感情だ。それによって競技生活が長くなるし、長生きもできる」

出典:ja.espnf1.com

「お金は不思議なものだ。持っていない人は持つことを熱望し、また持っている人はそのせいで多くのトラブルに見舞われる。」

「もし死が自分をこの世から連れ去るのなら、カーブの途中で全力で連れ去って欲しい。」

出典:www.porgoru.com

アイルトンセナのヘルメット

ブラジルカラーで彩られたセナのヘルメットは、大きな損傷もなく回収されています。しかし、その右目の付近に跳ね返ったサスペンション部品が当たり、セナの脳にまで達していたと言います。

彼の死後、F1のレギュレーションは安全の方向に改正され続けることになります。
しかし1994年のレギュレーションの改正では、ウイリアムズの独走を止めるべく考えられた改正がほとんどで、各車、安定するまでかなりの時間を要したのでしょう。特にウイリアムズにとってはアクティブサスペンションを失ったことに対応しきれていないマシンの挙動が見られ、その動きをつかみきれないセナの苦悩が読み取れていました。
F1の世界に生きて、天才中の天才とも考えられる感受性で、マシンの微妙な条件を察知して、その持てるポテンシャルのぎりぎりの世界で操縦している中で、自分の予期しないマシンの挙動が、想定以上の幅で起きてきたとき、それは対処のしようがない出来事でありましょう。

まとめ

ホンダをはじめマシン開発に携わる技術者たちは、セナの死をどのように受け止めているのでしょうか。
また同じF1の世界で天才として頭角を現し、セナの死を目前で見せられたシューマッハは、今、セナを超える戦績を残している自分の姿をどのようにみているのでしょうか。

41勝を挙げた記者会見の席でシューマッハは、記者の前で号泣して後、記者に「41勝とは、どのような特別の意味があるのでしょうか?」と問われて「ほかの話題にしてくれ」と言ったそうです。
少なくともシューマッハは、「F1レーサーとは何者であるのか」を、世界でただ一人、今は亡きセナと共有しているのでしょう。
今、セナのヘルメットは2千万円で取引されています。「ブラジルの国旗に込めたセナの意志」を人々が「どのように受け止めているのか」を表す出来事です。