20世紀最大のエポックメイク!?ローバーミニについて学んでみよう

いまどき“ミニ”と言えば、ほとんどの方がBMW製のMINIを思い浮かべることでしょう。でもこれはフォルクスワーゲン・ビートルやフィアット・500、フォード・マスタング同様“ヘリテイジライン”のひとつです。MINIにも40年以上頑張った大先輩がいました。1959年に発売されるやヨーロッパを魅了した偉大なるミニを大解剖!

はじめに

“ミニ”と呼ばれる車は、大きく括ると2種類あります。いえ、正確にはありました。現在、街の中を元気に走り回っているミニのほとんどは、2001年に生まれた新生ミニです。
1994年、経営難にあえいでいた英国ローバーをBMWが買収し、再生可能だと判断したミニ部門から新型の開発に乗り出します。ところが思いの外ローバーの経営状況は重篤で持ちこたえられなくなったため、ほぼ開発が終わっていたミニの開発拠点をドイツへ移して開発を続けたのです。
かくして、毎日あたりまえのように見かけるミニが生まれました。
オリジナルのミニに携わっていた人たちが大勢関わりながら新生ミニは開発されたので、オリジナルミニの良いところをたくさん受け継いでいます。

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今回は、BMWがつくった新しいミニではなく、“本家本元のミニ”について紐解いてみたいと思います。この愛らしいスタイルが生まれた背景や世界中の人々に愛された理由など、生誕から56年を経た今でも多くのマニアの心を惹きつけてやまないオリジナルミニの魅力に迫ります。

ローバーミニの歴史

1959年に誕生したオリジナルミニ。名前の通り本当に小さくて愛らしいデザインです。開発を指揮したのは、サー・アレック・イシゴニスです。

BMCの誕生と操業

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1952年、当時イギリスで大手2大自動車製造会社だった Austin Motors(オースチン・モータース)と Nuffield Organization(ナッフィールド・オーガナイゼイション)グループが合併しました。
前者のオースチンブランドと、後者のモーリス、MG、ウーズレー、ライレーの5ブランドを所有する、イギリス最大の自動車メーカーが誕生したのです。

国内資本の自動車メーカー同士によって行われた歴史的大合併の背景には、第二次世界大戦後にイギリス・フォードやボクスホールに代表されるアメリカ資本の自動車メーカーに押され、合併によって体力を強化する必要があるとと考えられたからです。実際に、BMCに次ぐイギリス国内資本の自動車メーカーだったルーツ・グループは、1960年代にアメリカのクライスラーによって経営権を乗っ取られてしまいました。

ミニ誕生のきっかけ

ナッフィールド・オーガニゼーションに在籍していたアレック・イシゴニスですが、ライバルであるオースチンと合併してBMCになったころから社内の環境に不満を感じ、一時高級車メーカーのアルヴィスに移籍してしまいました。高級スポーツカーの開発に取り組みましたが結局その生産化は頓挫し、1955年にBMCに戻ってきます。
この当時、BMCが量産していた車は、小型車から上級車に至るまで合併前のナッフィールド系とオースチン系のモデルが並立している過渡期にありました。いずれにしてもやや旧弊な設計のモデルばかりでした。イシゴニスは復帰するとすぐに、それらを刷新するためにニューモデル開発に取り組みました。
ところが1956年9月にはスエズ動乱が勃発し、国際的に石油価格が高騰してしまいます。このことが開発環境の大きな転機となりました。中東の油田依存率が高かった西ヨーロッパ諸国は、いわゆるオイルショックに陥ります。
イギリスの大衆層は乗用車を維持することも困難になり、当時西ドイツなどで生産されていた200 - 400 cc の“バブルカー”と呼ばれるミニカーを購入するようになります。それらは確かに経済的でしたが、単気筒かもしくは2気筒の空冷エンジンを搭載した騒々しい乗り物で、居住性や操縦性といった本格的な自動車に求められるような性能は欠如していました。
大衆が粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたサー・レナード・ロードは、自社開発陣に“極めて経済的な4人乗り小型車を早急に開発すること”と命じます。イシゴニス率いるBMC開発チームは、それまでの小型車ではなく、さらにコンパクトなニューモデルの設計を再考することになったのでした。

使えるモノはすべて使う

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ミニマムカー開発を命じた際に、ロード会長は“どんなエンジンを使っても良いが、既存のラインナップにある中から”(つまり新規開発はしない)という開発条件を提示していました。当時のBMCが生産していたエンジンのうち、唯一の小排気量クラス用エンジンだった850ccの“Aシリーズ”直列4気筒エンジン以外に選択肢はありませんでした。
Aシリーズエンジンは、BMC成立直前の1951年に設計されたエンジンです。オースチンの大衆車向けに著名なエンジン技術者ハリー・ウェスレイクが設計しました。堅実な水冷エンジンで、BMCが成立した後には、発展版の1,500cc“Bシリーズ”エンジンと共にBMCの標準エンジンに制定されていました。
当時としては何の変哲もない設計ですが、BMCのエンジンの中では新しい方で、実用エンジンとしての資質が高いものでした。1950年代後期には小型スポーツカーから貨物バンに至るまで、広く用いられていたエンジンです。
イシゴニスは、エンジンのカットによる2気筒化なども検討していたようですが、結局はAシリーズをどうにか流用し、駆動系のコンパクト化によって経済車に求められる性能を得ようと試みます。
以後Aシリーズエンジンは、ミニとは切っても切れない関係です。このエンジンを搭載した他のモデルが生産終了した後も、ミニが生産終了するまで半世紀にわたって生産されることになったのです。

これぞエポックメイキング!

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ロード会長が求めた開発条件は一見厳しい内容でしたが、裏を返せばエンジン以外は設計陣にあらゆる手段を用いることを許容するものでした。
アレック・イシゴニスは、ナッフィールド・オーガニゼーション時代に手掛けた傑作大衆車“モーリス・マイナー“の試作過程で、前輪駆動方式を検討したことがありました。そして前輪駆動を前提に、車軸と並行にエンジンを横置き搭載すれば、直列4気筒エンジンでもボンネットの前後長を短縮できるという発想に到達していたのです。
その時点では時期尚早で実用化は困難でしたが、それから10年余りを経て再びその着想の実現に動き出したのでした。
ボディは、既にBMCにとって手慣れた手法になっていたモノコック構造が採用されました。乗員の居住スペースは4人を収める最低限に切りつめられ、後部オーバーハングも切り詰めらています。それまでのイギリス製小型車にありがちだった“こんもりと盛り上がった背の高いキャビン”は、床の低い新しいコンセプトの前輪駆動車では不要になっていました。
さらなるスペース節減のため、タイヤサイズも見直されます。バブルカーより若干大きい程度、まともな自動車では先例のなかった10インチの超小径サイズ。ダンロップとの粘りの交渉の末、新たに開発されました。
横置きエンジンによる前輪駆動は、2気筒の軽便な車両では第二次世界大戦以前にもありました。でも、サイズの大きな4気筒エンジンでは、実用車として世界で初めての試みでした。最低限のスペースに4気筒水冷エンジンとラジエーターを収め、ラジエーターは一般的なフロントグリルの内側ではなく、効率が悪いエンジンの左側にレイアウトされていました(従って、エンジンのクーリングファンだけが頼り)。
更にオートバイの手法を流用して、エンジン下部のオイルパンを大型化してその内部にトランスミッションのギアセットを搭載するという離れ業を発案。ギアの潤滑はエンジンオイルを共用する構造です。
サスペンション形式は、フロントがウィッシュボーン、リアがトレーリングアームですが、生産性向上対策として、サブフレーム組み付けを併用してとてもコンパクトに設計されています。
これらに組み合わされるスプリングには、一般的な金属ばねではなく当時ばねの先端素材として注目されていたゴムを採用しました。ダンロップの技術者アレックス・モールトンの設計による、円錐状に成型されたゴムばねを用いたラバーコーンサスペンションです。
強いプログレッシブレートのおかげで、最小のストロークで最大のエネルギー吸収量を得る様に設計されています。この強いプログレッシブ・レートを持つばね、フロントが高くリヤが路面上にあるという特異なロールセンター設定のサスペンション、量産車としては今日の基準でも驚異的に速いステアリングギアレシオ、回転慣性モーメントやジャイロ効果の小さい10インチのタイヤなどによってゴーカートのようなハンドリングが生まれました。
さらにこの頃、イギリスのハーディ・スパイサー社によって前輪駆動に適した「バーフィールド・ツェッパ等速ジョイント」が実用・量産化されたことで、イシゴニスのコンセプトをより現実的なものにしたのでした。
このボール・ジョイントは、前輪駆動車の旋回時にドライブシャフトが大きな屈曲を伴ってもほぼ等速で滑らかに駆動力を伝達できる理想的なジョイントでした。まだ高価なパーツでしたが、タイヤが小さくサスペンションストロークの小さなミニは、タイヤ側だけにこのジョイントを使えば事足りるのです。デフ側のジョイントは、旧式ではあってもコストを抑えられるダブルカルダンタイプで間に合ったからです。
横置きエンジン方式自体は時代に先んじたエレガントな技術革新でしたが、ミニと同じ二階建てパワートレインの“イシゴニス・レイアウト”を採用した車種はほとんどありませんでした。フランスのプジョー・204、304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリー、ミッドシップのランボルギーニ・ミウラ程度でした。
より広く普及したのは、イタリアで1960年代に開発された、トランスミッションをエンジンと直列に横置きして車両内での前後長を短縮した“ジアコーサレイアウト”でした。
FF車のエンジンとトランスミッションの配置は、メーカーごとにさまざまですが、現在では四輪駆動を主力商品とするアウディやスバルの上級モデルに縦置きエンジンのFFが見られるものの、ほとんどのFF車はジアコーサ式の横置きエンジンを採用しています。

必然から生まれたデザイン

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オリジナルの2ドアボディのデザインは、リアトランクのためのオーバーハングも切り詰められました。1950年代後期には見たことのない純粋な2ボックスレイアウトです。全長はわずか3mほどしかありませんでした。
それでも、リアシートの後ろには最小限のトランクルームが確保されていました(片隅を燃料タンクに取られてはいましたが)。10インチタイヤと前輪駆動のもたらす効果は絶大で、床も車高もこの時代ではずば抜けて低く、ロードクリアランスは実用車としての最低限レベル、車高は1,400mmにも満たないのですが、大人4人が乗りこめるスペースが確保されていました。
当時、リアエンジン車では2代目フィアット・500(1957年)やスバル・360(1958年)のように4座で3mクラスを実現した事例もありました。でも、850ccの水冷4気筒をフロントに搭載した乗用車で、ここまで小型化された車はありませんでした。
このコンパクトなボディは、設計者のイシゴニスが自らのスケッチでデザインするという異例の過程でスタイリングされたものです。コンセプトと内部構造を熟知した設計者自身がデザインしたスタイルは、機能に直結した合理性に富むもので、完成度はすこぶる高くそのまま生産されることになったのでした。
ミニの実車を間近で観察すると、外板の継ぎ目にリブがあるのが気になりますが、これは組み立て時の手間を省いた結果とのことです。

盛りだくさんのMk-Ⅰ時代

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ミニは当初、“ ADO15(ADO=Austin Drawing/Design Office)”というプロジェクト名で呼ばれ、最初のモデルはオースチン・セブンとモーリス・ミニ・マイナーの名前でイギリス国内向けに発売されましたた。“セブン“は、ともに第二次世界大戦前に大成功を収めたオースチンの大衆車の名前で、“マイナー”は同じくモーリスの戦前のモデルです。オースチンがセブンの大成功にあやかるべく採用したのに対し、モーリスのそれは「洒落」だったといいます。
当時の広告には、“SEVEN”と“7”とを掛け合わせた“SE7EN”という表記がありました。
生産は元オースチン系の主力工場であるバーミンガムのロングブリッジ工場で行われ、1962年までには北米とフランスでもオースチン850、モーリス850の名前で発売されました。
ハイエンドモデルのサスペンションはラバーコーンではなく、内部にオリフィスと空洞を持つゴムばねを前後輪でパイプでつなぎ不凍液を満たしたハイドロラスティック(Hydro=水とErastic=ゴムの合成語)システムに変更されました。
この新しいサスペンションは柔らかな乗り心地で“魔法の絨毯”とも喩えられるほどの人気を博しました。

ミニは映画やミュージシャンなどを通じて、1960年代の大衆文化の中にその存在を焼き付けていきます。ビートルズのメンバーや、イギリス女王であるエリザベス2世もミニのオーナーでした。
アレック・イシゴニスは1960年に知人の紹介で、ミニの納車のためエリザベス2世女王に直々に謁見し、女王は助手席にイシゴニスを乗せて自らミニを試走させたそうです。

1960年代のミニの売り上げは全モデルで好調でしたが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかったのです。複雑な駆動システムが製造コストをふくらませる一方で、競合他社との競争に勝つために製造原価を割り込む価格で販売することを選んだためです。
当時のイギリス市場で最大の強敵はイギリス・フォードでした。“アングリア”や“エスコート”など、BMCの前輪駆動車よりも大きい3ボックススタイル(トランクのあるセダン)のボディで、当時では低コストな固定車軸の後輪駆動方式を用いたベーシックモデルを生産し、レースフィールドと大衆車市場の双方でミニやその上級モデルに当たるADO16シリーズと競り合っていました。

ミニクーパーの誕生

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ミニのことを“ミニクーパー”と呼ぶ人は少なくありません。これは、このモデルの活躍が元になっているのでしょう。それくらいこのクーパーモデルの活躍は世界中に轟いたのです。ミニクーパーが誕生した経緯をお話しましょう。

ミニの設計者イシゴニスの友人で、1959年・1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた“クーパー・カー・カンパニー”の経営者であるジョン・クーパーは、当時英国内のサルーンカー選手権にトライアンフで参加していました。ライバルであるロータス車の次元の違うハンドリングに刃が立たず、まったく太刀打ちできずにいました。
そんな頃、イシゴニスにミニの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目します。何回かの実験とテスト走行の後にイシゴニスと共同で、機敏で経済的でしかも安価な車を作ることを決意しました。
その成果が1962年にデビューした、ADO50“オースチン・ミニ・クーパー”と“モーリス・ミニ・クーパー”だったのです。
オリジナルのモーリス・ミニ・マイナーに搭載されていた848ccのエンジンは997ccまで排気量が増やされ、出力も34馬力から55馬力に高められました。このエンジンにはレース向けのチューニングが施され、当時小型車には馴染みのなかったSUツインキャブレターとディスクブレーキが装備されています。
経営陣はこのモデルの生産を決め、1,000台を発注しました。これは経営陣が参加を目指していた、FIAの当時のグループ2規定の生産義務台数をクリアするためです。
1964年には、997ccのエンジンがよりストロークの短い998ccのモデルに変更されています。これ以降、1967年にクーパーモデルの生産が終了するまでに計12,274台の“クーパー”が販売されました。

1963年にはよりパワフルな“クーパーS”モデルも開発されました。クーパーSは1,071ccのエンジンとより大径のディスクブレーキが特徴で、1964年8月のモデルチェンジまでに計4,030台が生産・販売されました。
当初A型エンジンの排気量拡大は1,071ccが限界とされていましたが、ダウントンのダニエル・リッチモンドがボア・ピッチをずらして1,275ccまで拡大する手法を考案します。イシゴニス、クーパー、リッチモンドの歴史的な3者会談により、量産型“1275クーパーS”の計画がスタートしたのでした。
量産に際して、サーキット・レースのクラス分けに合致した970ccと1,275ccの2つのモデルを新たに追加しましたが、970ccモデルはあまり売れず963台が生産された後1965年に生産終了となっています。1,275ccのクーパーSは40,000台以上が生産され1971年に生産終了となりました。

※諸説ありますが、アレック・イシゴニスは、1275クーパーSの販売に反対したと言われています。もともと848ccの非力なエンジンを搭載するために設計したミニに、あまりにも強力なエンジンを搭載することは、駆動系・足回りに支障をきたすと考えたからです。
事実、後年にはモノコックの一部を成すフロントインナーフェンダーや、リヤサブフレームの取り付け部分に亀裂が入る車輌が確認されています。

モンテカルロラリー 3連勝

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ミニクーパーシリーズを語る上で避けて通れないのが、このモンテカルロラリーでの連勝です。ミニ・クーパーで1964年、クーパーSで1965年、1967年のモンテカルロ・ラリーで総合優勝しているのです。
当時のラリーシーンではポルシェ911やアルピーヌA110が活躍していましたが、コースの半分以上が氷に覆われるというモンテカルロのトリッキーな路面状況でも、FF車は扱いやすく軽快にコーナーを駆け抜けていくのでした。
補助灯のレギュレーション違反ということで失格となったものの、1966年もトップタイムでゴールしていますので、実質4連勝しているのです。

BMCの衰退

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1960年代以降はイギリス経済の停滞が顕著となり、再度の企業統合が図られるようになります。1966年、ジャガー及びディムラーのブランドを持つジャガーを吸収し、持ち株会社のブリティッシュ・モーター・ホールディングス (BMH)が発足しました。
1968年にはレイランドグループとローバーグループと合併し、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション (BLMC) となります。
この時点までは、持ち株会社 BLMC 傘下で、過去のブランドを保有する各ディヴィジョンでの自主性はかなり保たれていました。ですが、数が増えすぎて社内競合を起こすブランドの過剰並立と過激な労使紛争の長期慢性化、それに伴う製品の品質悪化も手伝って、業績は下降の一途をたどります。
1975年には時のイギリス労働党政権の元財政再建の為に国有化を決定し、 ブリティッシュ・レイランド British Leyland Ltd. に改組し、ブランドの統合・車種の整理が始まるのです。

発展のMk-Ⅱ時代

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1967年から1970年までの間、イシゴニスは実験モデルとして9Xと呼ばれる代替モデルを設計していました。この車はミニよりも高出力でしたが、ブリティッシュ・レイランドの政治力によって結局生産されることはありませんでした。しかしこのモデルは技術的にも先進的であったため、もし現実に生産されていれば、1980年代まで他社に対し競争力を保てたかも知れないと言われています。
1967年、ミニのボディはMk IIと呼ばれるタイプに変更されました。フロントグリルはデザインし直され、リアウインドウも左右に拡大されています。リアコンビネーションランプが、大きな角型のものへと変更されました。
エンジンは998ccと1,275ccの二種類が用意されました。998ccモデルは55,000台以上が販売され、1969年に生産終了しています。
すでにレイランド体制下で、オースチン・モーリスのブランド分けはなくなっていましたが、日本ではそれぞれ輸入代理店が違うことからオースチン・モーリスのエンブレムが用意されました。

企業内政治に振り回されたMk-Ⅲ時代

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設計変更に伴い、開発コードがADO20に変わります。9Xと12Xが前期型、99Xが後期型と区別されています。
フロントデザインをリファインしたクラブマンシリーズを発売しますが、ブリティッシュ・レイランドは旧型の1960年代デザインのミニも引き続き生産し続けました。これは賢明な判断であったと言わざるを得ません。なぜならクラブマンシリーズはあらゆる方面で酷評され、早々に消えていったからです。
上位モデルに採用されていたハイドラスティックサスペンションが、重量と生産コストがかさむのとピッチングの制御が難しくセッティングの幅も狭いなどの問題から、ラバー・コーンサスペンションに戻されました。
この頃、日本仕様車はキャピタル企業が輸入していました。厳密にはタイヤがフェンダーから僅かにはみ出すミニは、本国仕様のままでは日本の保安基準に抵触するため、正規輸入車はフェンダー部分が加工され、若干幅が広げられていました。

クラブマンシリーズ

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1970年代初め、ブリティッシュ・レイランドの所有ブランドとなっていた頃、ミニはその「顔」を変更しています。ミニ・クラブマンと呼ばれ、フルワイズのグリルと現代的な角ばったルックスを誇っていました。同時に“1275 GT”と呼ばれる新モデルがミニ・クーパーSの後継として計画されました。また、ステーションワゴンのカントリーマンとトラベラーの後継として、クラブマン・エステートが発売されることになりました。
“ミニ嫌いのためのミニ”という謳い文句でデビューしたクラブマンシリーズでしたが、結果は散々でした。フロントデザインこそ違ってもミニの強烈な個性は変わらず、ミニ嫌いには受け入れられませんでした。それどころか、愛嬌のある顔を捨てたクラブマンはミニ愛好家にも振られてしまうのです。

イノチェンティバージョン

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1971年、ミニ・クーパーのデザインがイタリアのイノチェンティとスペインの Authi 社にライセンスされます。それぞれイノチェンティ・ミニ・クーパー1300及びAuthiミニ・クーパー1300として生産されました。本家クーパーSの生産終了と時期が重なったこともあり、イノチェンティ版のクーパー1300は多数輸入されました。
1974年、イノチェンティはミニのプラットフォームを元にベルトーネが設計したハッチバックモデルであるイノチェンティ90と120を発売しました。ベルトーネはミニ・クーパーの同型車で1,275ccターボエンジンを搭載したイノチェンティ・デ・トマソも販売しています(後にダイハツ製エンジンに変更)。

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イノチェンティ・デ・トマソ

終焉のMk-Ⅳ以降

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これ以降、メーカーからの公式リリースでは“Mk-○○”という表記がなくなりましたが、モデルの変遷を区別するために、便宜上この表記を使用して書き進めます。

膨大なコストを投入して新型を開発する体力のないレイランドは、法規制の変更やニーズに合わせて少しずつ仕様変更を繰り返しながらミニを生きながらえさせるのです。

1978年 - 1980年(通称Mk-Ⅳ):初期の特徴でもあったセンターメーターですが、衝突安全性の問題からこの時期をもって廃止されました。

1981年 - 1984年(通称Mk-Ⅴ):通常のミニをミニH/Lに名称変更とともにクラブマンシリーズのダッシュボードとメーター周りが流用されます。1983年に日英自動車が正規輸入元となり、いわゆるディーラー車の販売が開始されます。
1985年 - 1988年(通称Mk-Ⅵ):エンジンがメトロと同じ、A+(エープラス)に変更され、フロントディスクブレーキが採用されるとともにホイール径が12インチに変更されます。

1989年 - 1991年(通称Mk-Ⅶ):ブレーキマスターバック(倍力装置)を標準装備しました。

1991年 - 1992年(通称Mk-Ⅷ):メトロのエンジンを流用し、全車種1.3Lとなる。
1991年、待望のクーパーモデルが復活、新しいクーパーは1960年代のクーパーよりも性能的には若干劣るスペックで一時的に再発売されました。
1991年6月、「ERAターボ」、「クーパー1.3」、「スプライト」を日本導入(ERAターボ359万円、クーパー1.3 194万円、スプライト144万円 すべて4MT、税別)。次いで7月、キャンバストップ(4MT 税別175万円)を日本導入。

1992年 - 1996年(通称Mk-Ⅸ):全車インジェクション化されました。これはメインマーケットである日本市場の要望(クーラー装着が必須のため)からだと言われています。クーパー1.3iの4MTのみが62馬力、その他のグレードは53馬力でした。
1994年にはBMW がローバーグループを統括することとなり、ミニブランドもBMWに買収されます。この頃からコストダウンが目立ち始め、特別仕様車の頻繁な発表が相次ぐようになりました。

1997年 - 2000年(通称Mk-Ⅹ):各国の衝突安全基準に対応するため、ミニにSRSエアバッグと、サイドインパクトバーを初採用します。この延命策により、ミニの生産打ち切りまで猶予のあることが予想されましたが、2000年を最後に生産を終了しました。

派生モデルたち

共同企業体だった5つの会社が集まっていたBMC時代、オースチン・モーリス以外にもミニとコンポーネントを共有した車がありました。

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ライレー・エルフ
英国伝統の盾型グリルと小さなテールフィンを持つ高級バージョン

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ウズレー・ホーネット
ライレー・エルフの兄弟車。エンブレムが行灯のように光ります。

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モーリスミニ・トラベラー/オースチンミニ・カントリーマン
ミニをベースにした本格ステーションワゴンモデル

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ミニバン
オースチン版とモーリス版あり

出典:https://ja.wikipedia.org/

ミニ・ピックアップ

番外編 “プアマンズクーパー”

出典:http://blogs.yahoo.co.jp/rito

莉都さんのブログより

写真を探すのに苦労しました。その昔、ミニを買えない若者がホンダのN360やNⅡ、NⅢ、N600をベースに“真似クーパー”にしていました。
ルーフを白に塗ったり、写真のようにユニオンジャックにしてみたり。中にはボディを改造して、ミニのグリルを付けてしまう人もいたようです。
それぐらい、あこがれの的だったんですね。

最後に

最後のミニは2000年10月に組み立てラインを離れました。この年までに合計で530万台のミニが生産されたそうです。各国における衝突安全性や排出ガスの基準見直しによりクリアできなくなったことが生産終了の一番の理由でしょう。末期は生産数のかなりの割合が日本向けでしたが、もはや新基準にミニは合致しなかったのです。

生産終了後も日本国内のミニの人気はとても根強いものがあります。かく言う私も、初めて購入した車はクラブマンシリーズの1275GTでした(もう30年前のことですが)。
ミニを扱う専門店が全国に数多くあり、オーナーズクラブやイベントも他車種以上に盛り上がっています。人々を惹きつけてやまない、それだけの魅力がミニにはあるのでしょう。